エピローグ





 男はしばらく、呆けたようにその定期券を見つめていた。
 すでに女はどこかに行ってしまい、男と駅員だけがその場に残されている。


「良かったですね。あなたの手元に戻ってきたなら、それはあなたのものですよ」


 駅員は拾ったバラの花びらを拾遺物リストに書きくわえながら言う。
 だが男は、その定期券を駅員に差し出した。


「落し物です。これは、私のじゃない」


「いいんですか? せっかくあなたの手に戻ってきたのに」


「ええ。私には必要ない。
今までずっと見てきて、ようやく思い出したのです。
私もこの定期券の所有者などではなく、
誰かにこれを受け渡すための一人にすぎなかったのだと。
本当は、私は定期券ではなく別の物を探していたのです。
あの時に落とした、大事なものを。
定期券はそれを見つけるために必要でしたが、
探していたのは別のものだったんです。

……私もまた、記憶を落としていたのですね」


「思い出したなら、これに落とした物、落とした場所、
落とした日時、名前と連絡先を記入してください」


 男はさらさらとそれに記入すると、駅員に渡した。


「嘘をついていました。
私は、定期券を失くしたんじゃない。
本当は、自分から手渡していたんです。
でも、その後でもう一度定期券が必要になって、
嘘をついたんです」


「よかったら、話してくださいませんか?」


「ようやく彼女の薬を手に入れて、
帰ろうとした時です。
駅でひったくりに遭ったんです。
男が私に向かって走ってきたとき、私には彼がひったくりであると直感していました。
でも、私は彼にはなぜか定期券が必要だと感じたんです。
だから私は定期券を、自分から差し出しました」


「そう、これまでの物語の登場人物のように、
自分から定期券を渡してしまったんですね」


「ええ。でも、彼の勢いが強くて、私は彼もろともその場に倒れてしまった。
荷物がその辺に散乱して、ちょっとした騒ぎになってしまいました。
彼はあわてて、私の鞄一つと定期券を持って逃げた。
私はその時になってようやく、花が無くなっていることに気が付いたのです。

時間を自由にする力を持つ、青毬の花が」


「どこにも見当たらなかったんですね」


「はじめは落としたんだと思いました。
でもどこを探しても見つからない。
そして思い至ったのは、盗まれた鞄でした。
あの中に入れてあったはずだと。
でも、ひったくりの姿を探しても見つかるわけはありません」


「そうですね。残念ですが……」


「しかもあの花はとても高価なものだ。
鞄を見つけても、もう売り払われているでしょう。
だから私は、また買いに行かなければならなかったのです」


「そのために定期券を、もうずいぶんと長いこと探されたんでしょう」


「時間を考えるのなんて、とうの昔に辞めました。
それほど長い間、探してきたのです」


「それなのに、定期券を返してしまっていいのですか?
あなたの手に渡ったのだから、それはもうあなたのものですよ」


「いいんです。
そう、思い出したんですよ。

あの青毬の花、私は大事に持っていた。

大事に持っていたのに、駅で電車を待つわずかの間、
一休みしていたベンチに置いたのです。

その後、私はそれを置いたまま忘れてしまったんです。
盗まれたわけでも、落としたわけでもなく、忘れていたんです。

定期券を渡したときのひったくりのやり取りで、
すっかりそっちに気を取られて。
長い間、思い出すこともなかった。

そう、私もあの花をベンチに置いた記憶を、落としてしまったようですね」


「これから、どうするんですか?
あなたを待っている彼女もいるんでしょう?」


「彼女には時間がまだまだ、残されています。
私は自分の命が続く限り、あの花を探し続けます。
元の場所にはもう無いでしょうけど、私はやはりあの花を見つけなければいけない。

定期券を使って花を買ってきても、
彼女には効かないんですよ」


「どういうことですか?」


「あの花ね、すごく高価なんです。
私がどんなに稼いでも、買えないくらいに。
時を止めるための一輪を買うために、私は血を売りました。
そして時を進めるための一輪を買うために、内臓を売りました。
私の体の中には、生きるのに最低限の血と内臓しか残っていないのです。
笑えるでしょう。そこまでして手に入れた花を、私は置き忘れたんですよ。

本当なら定期券を手に入れて、この命を売って青毬の花を買うつもりでした。
それで彼女を助けるつもりだったんです。

でも、定期券を追っていろんな物語を見ていくうちに、
考え方が変わりました。



もう誰も知る人のいない世界で
たった一人目覚めて、彼女はどう思うだろう。


たった一人の物語なんて、どこにもなかった。
そう考えたら、
命を売ることができなくなってしまったんです。

だから、残された私の時間で、もう一度あの花を探します。
もしかしたら、他にも時を進める方法が、見つかるかもしれない。


だから、私はもう行きます。
ご迷惑をおかけしました。
ありがとうございました」


 去ろうとするその男の背中に、駅員は声をかけた。


「待ってください。
あなたに、渡すものがあります。思い出したのだから」


 駅員は小さな青い花を取り出した。


「あの時、あなたの忘れた、青毬の花ですよ。
落し物として保管していました。
あなたがここへ来たのは、定期券を受け取るためではなくて、
この落し物を取りに来たんですよ。さあ」


 男はゆっくりとその小さな花を受け取った。


「……確かに、私が落としたものです。
あなたが、保管していてくださったなんて。

ありがとうございます」


 駅員はその花を大事そうに持ちながら去っていく男の後ろ姿を見送り、肩から提げた郵便鞄の中身をもう一度見やった。


「また、たくさんの物語を拾ってしまった」


 駅に戻れば、書類の山に追われるに違いない。
 帽子をかぶり直し、彼もまた駅へと戻って行った。








 〜拾遺物リスト〜


* メモ紙のようなもの 絵の中

* 溶けてつぶれた10円チョコ(ピーナツ味) カムイヶ岡公園

* お酒が入っていたグラス 演者の部屋

* スガリの根 ソワヌィ・カムチ島

* 月の涙のしずく ソラノナカマチ

* 砂ホタル 時間の街

* エアクリスタル(青) 雪原の上

* 山形のおせんべい一枚 ツヅキ市 ハラ ナカマチ

* バラの花びら 路上





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