作・神田春
あの夏、あの町は焦げた臭いが充満していた。
大人たちの不機嫌そうにいらだった顔と、それにどこか怯えながらも日常を続ける子供たち。そのすべてが歪んで、淀んでいた。
顔をしかめたくなる、焦げた臭い。
それが私の、あの町の記憶。
帰郷は、15年ぶりだった。
新千歳空港に着いて札幌で一泊した後、JRで奈井江駅へ向かう。
札幌から少し離れれば、どこも変わらないただっ広い平野と山ばかりの景色。まばらに見える馬や牛も、ここで生まれ育った者にとっては興味の対象にはなりえない。奈井江駅までは、だから電車の中でただひたすらに本を読んだり、音楽を聴いて過ごした。
奈井江駅は同じ空知郡とは言っても観光名所のある富良野とは違い、観光客どころか住民さえまばらな寂しい駅だ。その駅前からさらにバスに乗って40分ほど行ったところ、そこに空知郡空野仲町はある。
ただただ大地と、それほど高くない山、そして川がある、それだけの町だ。
自然だけは豊かで、町の繁華街を少し離れればすぐに牧場が見えた。道路はどこまでもまっすぐで、空は広くて高い。なんていうのは、後に都会に住んでから思ったこと。それまではそれが当たり前で、何にもないあの町が私の故郷だった。
空野仲町には乳製品会社の工場があり、町民の七割がその工場とそれに関わる仕事をしていた。私の父もまた例外に漏れず工場の開発担当者だった。私だけじゃなく、当時の同級生のほとんどは同じ工場に父親か母親が務めていたし、それ以外の子も工場に昼食を納入する弁当屋の子供だったり、作業着のクリーニングを一手に引き受けるクリーニング屋の子供だったりした。
だから、不況のあおりと大規模食中毒事件がきっかけで乳製品企業の業績が悪化して工場閉鎖が決まった時は、町は大混乱に陥った。工場の町だったから、工場がなくなれば町自体がなくなってしまう。事実、工場が閉鎖され、私だけでなく他の友達たちもみんな町を出て行って、今では町と認められるだけの人口もいないという。住民もほとんどが高齢者。いわゆる限界集落。それが今の空野仲町だった。
もともと父も母も関東の人間で、工場赴任でこの町にいただけだから、親戚縁者も残っていない。友人もほとんどが出て行き、わずかに残っていた地元の友達も高校卒業を機に就職や進学で札幌や旭川に出て行った。今では本当に、知る人なんて一人もいない。
だから今回の帰郷もずいぶん驚かれた。私は今まで一度も家でこの町の話をしなかったし、父も母もそれは同じだった。弟に至っては、この町を離れたのがまだ小学校に上がる前だったこともあって、もう記憶にもないという。そんな我が家で突然私がこの町に行ってくると言ったのだから、無理もない。
「友達と夏に旅行するの。北海道」
それならと、両親は女の子だけの旅行を許可してくれた。本当はウソ。
沖縄に行く友達のグループにお願いして、一緒に行くことで話を合わせてもらったのだ。
私はどうしても一人でこの町に来なくてはいけなかった。
だって、あの定期券を受け取ってしまったから。
焦げ臭いにおいは、何もあの時に始まったものじゃない。
私は昔から、何かちょっと歪んだ空気を感じると、焦げ付いたような嫌な臭いを感じることがあった。たとえば両親が喧嘩をしているときの居間とか、クラスで悪口を言いあって楽しんでいる女子のグループの周りとか、すぐキレる男の子とか、べつにそういう態度をしていなくても、私には何となく臭いでわかった。
それが他の人とは違う力だというのは、小学校の低学年で気が付いた。ある日両親が大げんかをした後、うんざりしたように居間を出て庭に水をまく父と、乱暴に料理を始めた母。その時、あの焦げ臭いにおいがして、つい私は言ってしまったのだ。
「お母さん、何か焦げてるよ」
そのときの母の顔は、昔からほとんど泣く事のなかった私が思わず泣いてしまうほど、怖いものだった。
「あんたまでそうやって、私が悪いっていうの!? 毎日毎日我慢して、誰のためだと思ってるのよ!!」
喚き立てる母親と、泣き叫ぶ私の異変に気付いた父が居間に飛び込んできて私を庇わなければ、私はあの時我慢の限界が来ていた母親に捨てられていたかもしれないと、今でも思う。だけどその時私を庇い、母を責めながらも父は、どこにも焦げた臭いなどしないと私に言った。それで、私は初めて気が付いたのだ。この臭いは自分にしか感じないと。
おかしい子だと思われる前に、自分から隠すことができたのは幸いだった。
焦げた臭いは生活のそこかしこにあったけれど、いつもではないし、気にするものでもなかった。
でもあの夏は、雪が溶けたころから町中がそこはかとなく焦げ臭くなっていた。春になり、初夏になる頃には近くで火事が起きているんじゃないかって思うほど臭いはきつくなって、私の鼻は利かなくなっていた。
そう、あの日は初夏らしいからっとした涼しい風の吹いている日だというのに、私は相変わらず焦げ臭いに頭が痛くなっていて、なんとなくふらふらと山の方に惹かれていた。山と言っても丘に木が生えた程度の小さな山。なにしろ名前がカムイヶ岡公園というのだから、今になって思えばやはりあれは山ではなく丘だったのだろう。しかも公園と言われているのならば、人が管理していたはずである。だけど子供には、十分大きなそびえたつ山に見えていたのだ。
当時の幼かった子供の足でも越えられる山の向こうには道道が走っていて、その奥には別の住宅地があった。そちらには昔から空野仲町に住む人たちが住んでいて、工場勤めは少ない。カムイヶ岡公園の向こう側にはあまり友達もいないし、学区が違ったから、ほとんど行ったことはなかった。何より当時の幼い私たちにとっては、小さいとは言っても山は迷いそうになる唯一の場所で、そこを超えるのは大冒険だったのだ。それに、その山を越えてしまうよりもその中でのんびり過ごす方が、私は好きだった。そこは唯一焦げた臭いの届かない場所だったから。
もともと田舎の町だから、髪を揺らす風はわずかに土や木々の匂いがし、トンビは山からゆっくりと弧を描きながら小学校の上を回っていた。見上げれば遠くにわずかな飛行機雲。それ以外は何も無い、高い高い空が続く。
その日も私は一人、まっすぐにカムイヶ岡公園に続く道を歩いていた。
「ななちゃーん!」
後ろから呼ぶ声に振り返れば、小さなカバンを肩から掛けたゆみちゃんが走ってくるところだった。ゆみちゃんは同じクラスの女の子で、たまに一緒に遊ぶくらいの、特別親しいわけではないけど、でも嫌いではない。そういう子だった。
「なにしてるの?」
ゆみちゃんはおかっぱの髪を揺らしながら走ってきて、息が上がったままとぎれとぎれにそう聞いた。
「カムイヶ岡公園に散歩に行こうと思って。ゆみちゃんは?」
「おじいちゃんのとこに行くの」
彼女はそう言うと、鞄から見慣れない一枚のカードを取り出した。
「お父さんの借りてきたの。定期券。これでおじいちゃんのとこまで行けるんだよ」
JRの通っていない空野仲町に住む私は、その時初めて定期券というものを見た。
「定期券って何?」
「何回も汽車に乗れるんだよ。昔お父さんが毎日汽車でお仕事行ってた時に使ってたんだって」
線路のない町に暮らしていた私には、毎日汽車に乗るということが想像できなかった。いったいなんでそんなに毎日遠くまで行かなければいけないのか?
工場勤務のおじさんたちのほとんどが車か自転車で仕事に行くのに慣れていた私には、ちょっとしたカルチャーショックだったのだ。
「ゆみちゃんのお父さんは、今でも毎日汽車に乗るの?」
「ううん。今は使ってないから、借りてきたの」
そのときの私たちには、定期券に使用期限があるということもわからなかった。それさえあればいつでもどこまででも行けるのだと思っていたのだ。
「おじいちゃん、どこにいるの?」
「美唄。だから汽車でいくの」
「でも、美唄だったら奈井江から行くしょ? こっちは違うよ」
「違くないよ。だって駅、こっちにあるもん」
そう言ってゆみちゃんは、カムイヶ岡公園を指差した。
「うそぉ。カムイヶ岡に駅なんてないよ」
「あるよ。私、見たことあるもん。おじいちゃんもカムイヶ岡から乗りなさいって言ってたよ」
「ほんと? したっけ私も一緒に行く。駅までならいいでしょ。私も駅見てみたいもん」
カムイヶ岡に駅なんかないと知りながらも、奥まで一人で行ったことはなかった私は、もしかしたら私の知らない奥の道があって、そこには駅があるのかもしれないと、半ば空想のように考えていた。それに、ゆみちゃんからは焦げ臭いにおいが全くしなかったし、嘘をつくような子ではないと知っていた。
「そうだ、ななちゃんにこれあげる」
ゆみちゃんはかばんから黄色い包みの十円のチョコを二つ取り出して、渡してくれた。ピーナッツが入ってる、私の大好きなチョコだ。私は一つをその場で開けて口に入れ、もう一つはポケットに入れる。
「ななちゃん、東京に引っ越すって本当?」
そう言われて驚いたのは、私の方だった。そんな話、両親からも聞いたことはない。
「ウソだよ、それ。誰が言ったの?」
「すずちゃんとりかちゃんが話してたの。ななちゃんのお父さんはホンシャのカイハツに行くって。だから東京に引っ越すんだって。りかちゃんとかりょうくんのお父さんたちはゲンチサイヨウだから、しごとをクビになるんだって」
私は怒るよりも先に、げんなりした。すずちゃんのお父さんは工場の人事課長だから町のみんなのお父さんやお母さんが、工場閉鎖の後にどこに行くかを知っていた。それを家で聞いては、学校で偉そうにみんなの前で発表するのだ。そしてたいていは「いーよね、ななちゃんのお父さんはエリートだから」なんて言っては、みんなに私を仲間外れにするように仕向けていた。誰ひとり閉鎖とか、人事とかいう言葉を知らなくても、親同士の会話ですずちゃんのお父さんが偉い人だってのはわかっていたし、そのすずちゃんが言うことなら正しいと信じている子は多かった。
でも学校には、そんなすずちゃんにつき従う子供ばかりじゃなく、ゆみちゃんみたいにどっちにも属さない子供も多かったから、幸い集団にいじめられることはなかった。
「よかったぁ。ななちゃんが引っ越さなくて」
そうやって、心底ホッとしたように、それでもカラッとそう言ってくれるゆみちゃんが、私はけっこう好きだった。だからゆみちゃんと離れるのは、私も嫌だったのだ。
「ゆみちゃんは? ゆみちゃんのお父さんは工場で働いてる?」
「ううん。うちのお父さんは図書館の館長さんだから、引っ越さなくていいの」
「知らなかったー! 私毎日図書館行くのに。したらゆみちゃんのお父さんにも会ってたかもしれないね」
大きなチュップペツ川に架かるカムイ橋を渡りながら、私は振り返って遠くに見える図書館を探した。いつも通って本を借りている、小さくて古い図書館。残念ながら橋の上からでは見つけることが出来なかった。
「でもうちのお父さん、カウンターにはほとんど出てこないから。いっつも事務所で仕事をしてるか、一番奥の本棚で本の整理してるよ」
「だったら私知ってるよ! ちょっと背が高い、髭のおじさんでしょ? このあいだ、とどかない本取ってもらったの」
「本当? その髭のおじさん、たぶんうちのお父さんだよ! 帰ったらお父さんに聞いてみるね。今度うちにも遊びにきて」
「うん。行く行く」
そんな話をしているうちに、私たちはカムイヶ岡公園の中に入っていた。勝手知ったる山の中、私たちはどんどん奥へと進んでいく。
湿った土のにおいと、ひんやりと肌寒い空気を胸いっぱいに吸い込みながら、上へ、上へと向かっていく。
私たちはちょっとだけいつもより速足で進んでいた。
知らない場所に駅があったなんて、ドキドキした。最初はウソだと思ってた私も、なんだかその駅が本当にあるような気がして、早く駅に行ってみたくて仕方なかった。
何も変わらない、いつもほのかに焦げ臭い、なだらかな土地と青い空だけのこの町に、どこか別の場所へ行ける駅がある。それは日常で淀んでいた私の心を、外へと向けさせた。
どこか他所の土地を見てみたい。違うにおいをかいでみたい。
気持ちは急いた。
やがて、その分かれ道は現れた。いつもなら真っ直ぐに進むはずの山道で、急にゆみちゃんが立ち止まる。
「こっちだよ」
指さされたのは、よく気をつけていなければ見落としてしまう、けもの道。
「本当に、こっち?」
それは駅という都会的な雰囲気からはかけ離れた、本当の山奥のような印象だった。両脇には背の高さをゆうに超えた熊笹が茂っていて、その先に何があるのかも見えない。木々がそれまでの道よりも鬱蒼と茂っていて、それまでよりもずっと暗い。
「間違いないよ、ほら」
ゆみちゃんが指差した先には、熊笹に埋もれるように倒れた古い木の看板。近づいて目を凝らしてみれば、そこには確かに「←駅」と書かれている。
だけどそれまでの高揚した気分は一転して、私は足が止まってしまった。
行っちゃだめだ。心の中で、なぜかその思いが強くわき上がる。だけどゆみちゃんは先に行くのが当たり前という顔をして、動かない私を不思議そうに見ていた。
その時だった。
風に乗って、ふわりと、焦げたにおいが鼻腔をくすぐった。
駄目だ!
そう思うのに、私の足は一歩、一歩とけもの道へと吸い込まれるように、歩き始めてしまった。だってその焦げたにおいは、確かに焦げているにおいなのに、まるで醤油をたらした餅を焼いているような、香ばしいいい匂いだったのだ。
焦げた臭いは嫌だと思っているはずなのに、私はそっちに惹かれていた。ゆみちゃんはその匂いを感じないみたいで、だけど私が歩き始めたので安心したように、並んで歩き始めた。
縁日のような香ばしい匂いが強くなっていく頃、ようやく熊笹が途切れて視界が開けた。
驚いたことに、そこには、道があって、人がいた。見ればすぐ先には駅がある。駅前にはいくつかのお店も並んでいて、その店先にはどれも人影。
だけど、いつもの癖でお金を持たない私たちはお店をひやかすこともなく、ただ真っ直ぐに駅舎に入った。
小さくて古い木の駅舎。でも無人駅ではなくてちゃんと駅員さんが立っていて、改札を通る人の切符を確認している。
駅舎の中は、さっきよりも強い匂いがしていた。香ばしい、お肉を焼くような匂いが。でも不思議と、おなかがすいたりはしなかった。私にはそれが、嫌な臭いなのかいい匂いなのかわからなかったのだ。美味しそうと表現できるはずの匂いに、私は不安ばかりを感じていた。一応見回してみたが、もちろん小さな駅舎で誰かが何かを焼いているということはない。
「ここから乗るの? 汽車は何分?」
「もうすぐ」
駅に着いたのが嬉しいのか、ゆみちゃんはあいまいに答えながらカバンをごそごそ探して、券を取り出した。だけど、よく見ればそれは、あの定期券ではなかった。もっと小さい、もっと灰色の、ただの切符に見えた。
「ゆみちゃんそれ、さっきの定期券じゃないよ」
「切符を拝見」
私の声は駅員の大きな声にかき消された。
駅員はゆみちゃんが差し出した切符に ぱちん と切れ目を入れる。
その瞬間に、私は何か大きな間違いをしたような、もう二度と取り返しのつかないような、ゆみちゃんと私は永遠に分断されてしまったような、そんな絶望に襲われた。言いようのない不安、恐怖、後悔。私は、気がつけば今まで出したこともないような大声で叫んでいた。
「ゆみちゃん!!」
それは定期券じゃない! 片道だけの切符だから、行っちゃ駄目!
だけど私の叫び声は、ちょうど入ってきた汽車の汽笛にかき消されて、私自身は駅員に改札で止められる。まっ黒な、暗い暗い濁ったような色の制服を着た駅員が私の前に立ちはだかっている。
「お客さん、切符を拝見」
私は切符も定期券も持っていなかった。無理やりに通ろうとしても、駅員の体はまるで石のように硬くて全く動かない。無いと知りながらもポケットをまさぐってみたけれど、やっぱりレシート一枚出てこなかった。あるのはチョコの包み紙と、まだ食べてないチョコが一つ。切符も定期券も、私は持っていなかった。なりふり構わず黄色いチョコの包み紙を投げつけてみたが、それは駅員の胸に当たってあっけなく落ちた。もちろん通してくれるはずも、ひるむ様子もない。
「ゆみちゃん、だめ! そっちはちがう!! いっちゃだめ!!!」
声は全く届かないのか、ゆみちゃんは一度だけこっちを振りむいて楽しげに手を振った。
そしてそのまま、汽車に乗り込んでしまったのだ。
「ゆみちゃん、降りて!! ゆみちゃん!!!!」
ドアは閉まり、ゆっくりと汽車が滑り出してなお私は叫び続けた。だけど見る見るうちに汽車は遠ざかり、やがて改札からは全く見えなくなった。あっという間の出来事だったように思う。
私の声はすっかり枯れて、頬は涙にぬれていてなお、その先を、汽車の行った先を見ようとして身を乗り出したその肩をぐいっと引っぱったのは、あの駅員だった。
私は駅員の顔を始めてマジマジと見た。駅員も私を見ていた。
お互いがお互いを見ているはずなのに駅員と私は、目が合わなかった。
ゾクッと、背筋に虫が這い上がるような怖さを感じた。声はのどの奥で消える。
ここにいちゃいけない。本能で私は察した。
空気が、一変していた。まるで全てが私に集まってくるように、閉じ込めようとするように。何か大きなものが覆いかぶさってくるような。そんな圧迫感や閉そく感、そして何よりも絡めとられそうな恐怖に、私は突き動かされた。
私は強烈な香ばしい匂いの中を反対方向に、駅から逃げ出すように走り出す。追ってくるいくつもの気配がある。だけど、振り返る余裕はない。
いつの間にか駅の周りは霧に包まれていて、そこかしこにいたはずの人は、今では動く黒い影が見えるだけ。それも、ただ霧に包まれて人影になっているのではなかった。
影は、その向こうが透けていた。
ただの黒い影、実体のない、透明な……。
それがゆっくりと、だけど確実に私に近づいてきていた。もう、なりふり構っている暇はなかった。ただ走った。走って走って、熊笹の茂みだけをめがけて走った。何人かが私の背中や腕に触れた気がしたけれど、構わず走った。
やがて頬や腕にかすかな、しかし確かな鋭い痛みを感じて見れば、そこには無数の切り傷。そこまで来て初めて私は、熊笹の茂みを一心不乱に走ってきたのだと気が付いた。だけど恐怖でそのまま足を止めることができず、カムイヶ岡公園を出るまで走り続けた。急な傾斜を転がり落ちるように、積み重なった落ち葉の柔らかい地面を抉るように、私は転がり、滑り、落ち、それでもなお起き上がって走り続けた。
出た先は、いつものチュップペツ川の川べりではなくて反対側、道道とその向こうに広がる昔ながらの住宅地。そこまで来て、ようやく私は足を止めた。
ざわり、と鳴る音に振り返れば、カムイヶ岡の木々が不吉なもののように風に蠢いていて、二度とそこを通って帰る気にはなれない。
私は一人、道道を通って遠回りに帰った。
その時は、夢でも見ていたような気がしていたのだと思う。ゆみちゃんがいなくなったことがショックで、何も考えられなかった。でも心のどこかで、あれは夢だという気もしていた。駅なんかなくて、一人で歩いていたんだとか、ゆみちゃんははぐれただけで一人でもう帰ったんだとか、そもそも私が勝手に怖い思いをしただけで、あの駅は本物でゆみちゃんはちゃんとおじいちゃんのもとへ行ったんだとか、都合よくそう考えようとしていた。
だけど、夜になってゆみちゃんのお母さんからゆみちゃんの行方を尋ねる電話があって、私は初めてあれが現実だったのだと思い知らされた。
「あんた、ゆみちゃん見てない? 今日の朝家を出たっきりなんだって。どこかで見なかった?」
「朝、カムイヶ岡に行く道で会ったよ。おじいちゃんのところに行くって言ってた。あっちに駅があるからって」
私は、言葉を選んで言った。
「あっちって、カムイヶ岡? あんなところに駅なんかあるわけないじゃない!」
駄目だ、言えない。本当のことなんて言ったら、おかしい子って思われる……。私は、ゆみちゃんの心配よりも怒られることや、軽蔑されること、そして何より捨てられることが怖かった。だからとっさに、声を荒げた。
「知らないよ! ゆみちゃんがそう言ったんだもん。だからゆみちゃんがカムイヶ岡に行くのは見たけど、その後は知らない」
母は慌ててそのことをゆみちゃんの母親に伝え、その夜のうちに町の人がカムイヶ岡に捜索隊として入ることになった。夜に入ったところで迷う人などいない。大人にとってカムイヶ岡は、その程度でしかなかったのだ。
「あんた、ゆみちゃんが本当はどこに行ったのか知らないのかい? あんなところに駅なんかないの、あんたたちだって知ってるでしょう?」
「……知らない」
私は、嘘をついた。なぜだかその時、私は言ってはいけない気がしたのだ。あの駅のことも、そこであったことも。信じてなんてもらえない。言ったら、嘘つきだって言われる。私はかたくなに、あの事を話そうとはしなかった。
ポケットの中で、ゆみちゃんがくれた十円のチョコが溶けて潰れていた。
ゆみちゃんは行方不明になった。
深夜の捜索と、その後一週間続いた捜索で、見つかったのはゆみちゃんの鞄だけ。中からは古ぼけた定期券が出てきたけれど、聞けばその定期券に改札で切符につけられるような切り取り痕は無かったということだ。
やはりあの時ゆみちゃんが出してしまったのは、定期券ではなかったのだ。だとしたら、ゆみちゃんはどこであの切符を手にしたのだろう?
わからないままに、私たちの日常からゆみちゃんの存在は次第に薄れていった。
ゆみちゃんのおじいさんが前の冬に亡くなっていたことも、最近になって急にゆみちゃんが「おじいちゃんに夢で会った」と話していたことも、全て後で聞いた。それは私にとって、もはや何の意味もないことに思えた。だってゆみちゃんはいなくなってしまったのだし、結局戻って来なかったのだから。
疑っていたわけではないだろうけど、大人は何度も子供たちにゆみちゃんの行方を聞いた。そのたびに私は知らないと言い続けた。いつしか、私は自分から焦げた臭いがすることに気が付いた。
結局人事課長の父を持つすずちゃんの言う通り、私はゆみちゃんが見つかる前に父の転勤で東京に引っ越すことになった。ゆみちゃんのことが薄れていって、それでもまだ何となくみんな後味の悪い、後ろめたい気持ちをぬぐいきれない秋のことだった。
すっかり焦げた臭いのしみついた私は、ゆみちゃんの両親に別れの挨拶をして、だけど最後まであの駅の事は言わずに空野仲町を離れた。
結局ゆみちゃんは見つからなかった。五年が経って、とうとう諦めたゆみちゃんの両親はゆみちゃんのお葬式をしたのだという。
駅前でバスを降りれば、そこはまぎれもなく空野仲町だった。
数少ない商店のほとんどはシャッターが閉まり、人の姿は見えない。かつて通っていた小学校は児童減少で廃校になっていて、私はその空き地のわきを通ってカムイヶ岡公園へ向かった。公園手前を流れるチュップペツ川と、それに架かるカムイ橋。あの時はあれほど大きな橋に見えたカムイ橋も、大人になった今となってはずいぶん小さく感じられる。あの時は何もかもが大冒険で、毎日が大きかった。
空を見上げれば、カムイヶ岡に住んでいるのだろう、トンビが弧を描いて悠々と飛んでいる。空は大人になった今でもずっと高く、ずっと広く、どこまでも青い。そして目の前にあるカムイヶ岡公園は、あの時の不気味な印象など忘れさせるかのような、こんもりとした小さな丘だった。
足を踏み入れて大きく息を吸えば、確かに懐かしい土のにおい。
古い記憶を頼りに細い山道を登る。子供の頃には感じなかった傾斜が、今ではきつく苦しい。だけど、徐々によみがえる記憶に間違いはなく、確かに私はあの時この道をゆみちゃんと歩いた。
東京の駅でふいに友人から手渡された古ぼけたカードに、私は過去の罪を暴かれたような気がした。
「そうそう、奈々、昔定期券を探してるって話してたでしょ? だからコレ、あげるよ。私もたまたま貰っただけなんだけど、これ見たら奈々に渡さなきゃって思って」
仲の良い友達がくれたそれは、水色の定期券。もう字はかすれてどこに行けるのかわからなかったけれど、私にはそれが何なのか、すぐに分かった。あの時ゆみちゃんが見せてくれたお父さんの定期券。それに間違いない。
誰かが私があの時ゆみちゃんを見捨てて逃げたこと、嘘をついたことを知っていて、その罪を暴くためによこしたのだろうか。
それともどこかにいるゆみちゃんが、見捨てた私への恨みを晴らそうとして送ってきたのだろうか。
さっぱりした性格で裏表のないこの女友達が、誰かに頼まれて私にこれを渡したとは考えにくい。だとしたら本当に偶然なのだろうか。もしそれが偶然だとしても、これはきっと必然だ。
私は来るべき時がきたのだと悟った。
行かなきゃいけない。ゆみちゃんが呼んでる。
逃げるなどということは考えなかった。
本当は、これまでずっと苦しかったのだ。言おう、言おうと思って言えなかった。言って信じてもらえないことが、嘘をついていると言われることが、おかしい子と思われることが怖かった。でも言えないうちに言う機会を逃して、もっと言えなくなった。そしてずっと、ゆみちゃんを見捨てて嘘をついたという罪悪感を抱いてきた。
もう、断罪されたかった。
だって私は、確かにあの時あの場所に惹かれたのだから。私とゆみちゃん、違ったのは定期券を持っているかどうか、それだけだったのだから。
渡された定期券はだから私にとっては待ち望んだ処刑台への切符だった。
一歩一歩、柔らかい落ち葉を踏みしめながら歩いていけば、やがて見覚えのある場所へ出た。真っ直ぐ行けば道道に出るが、左は熊笹で覆われたけもの道。探してみたけれど、倒れた木の看板は見つからなかった。それでもこの場所に間違いはない。
私は、けもの道へと足を踏み入れた。
焦げたにおいは、もうずっと感じていない。ちょうどゆみちゃんがいなくなって、私が引っ越した後くらいから、もうその臭いを感じることはなくなった。
だけどその分、雰囲気や人の声音で歪みを感じることができるようになった。だからあれは、子供なりの自己防衛の一種だったのではないかと今では感じている。誰よりも臆病で慎重だった幼い私が身を守るために、言葉に表せない嫌な雰囲気を感じた時に「焦げた臭い」と勝手に思っていただけかもしれない。そして成長し、雰囲気にもっと敏感になるに従って、逆にそれを感じ取ってばかりでは体と心がもたないと、感じなくなるようにしたのもまた自己防衛。そうやって私は自分だけを守って生きてきたのかもしれない。
熊笹をかき分けていても、やはり焦げた臭いも香ばしい匂いもしなかった。ただただ、細いけもの道を淡々と進む。
そして不意に、視界が開けた。
熊笹の茂みは終わり、目の前に広がったのは駅舎と駅前商店街ではなく、小さな暗い沼だった。
波紋さえ立たず、ぬったりと黒い水面をたたえる小さな沼。鳥もいなく、魚の影もない。音はなく、何一つ感じられない沼が、そこにあった。そんな沼の存在を、私は知らない。
当時何度と無く足を運んだカムイヶ岡だったが、この道に入ったのはあの時、ゆみちゃんと歩いた一度だけ。だけどあの時はこの先に、確かに駅があったのだ。店も人もいたのだ。それが今は、沼しかなかった。
沼の先は行き止まりのように三メートル程の崖がそびえていた。その先に行くことはできない。沼の水面を見つめれば、深さはどれほどあるのか知れなかった。底は見えず、それどころか全ての色を吸収してしまうかのような深い濁った黒っぽい水面は数センチ先ですら色を通さないように思える。
私はポケットからその定期券を取り出した。かすれた文字はやはり読めず、どこに行けるのかわからない。
私は沼のほとりで定期券を見つめながら待った。
何かが起きるはずだと。起きてほしいと願いながら待った。
しかし十分経っても、二十分経っても、何も起きなかった。
駅員も、黒い影の人たちも現れることはなく、電車も来ることはない。
あの時は切符を持っていなくて乗れなかった電車に、今では定期券を持っていても乗ることはできない。
ゆみちゃんは私を連れていってはくれない。
私はやはり、どこにも行くことはできないのだ。
重い現実がのしかかってきた。
罪が赦されることなど、無い。
ゆみちゃんを見捨てた罪は、きっと一生背負い続けなければいけないのだろう。都合よく誰かが断罪してくれることなどなく、許されることもなく、ゆみちゃんが今まで見つからなかったように、私の罪も私の胸の内で誰にも見つかることなくこのままひっそりと生き続けるのだろう。
私は私の罪の重さを背負いながら、生きていくに違いない。
私はあきらめて、その場を立ち去ろうとした。去り際にもう一度だけ振り返ってみたけれど、そこにゆみちゃんの姿はなかった。何も無い黒い暗い暗い沼がそこにあるだけ。
だけどその沼の端に、色の違う何かがあった。小さな、ごみのような、黄色いもの。目を凝らして見れば、それは十円チョコの包み紙だった。
私は、息をのんだ。
さっきまでは無かったはずだ。いや、確実に無かったといえる。沼に何かないか隅々まで見回していたのだ。あんなに鮮やかな包み紙なら、気が付いたはずなのに。見覚えのあるその明るい黄色のそれは、あの時ゆみちゃんが私にくれて、私が駅員に投げつけたあのチョコの包み紙だった。
やがて私の見ている前でその包み紙は、とろりと水面に沈んで、そして消えた。
もう二度と、目を凝らしても濁った水の下にあの鮮やかな黄色い色を見つけることは出来なかった。
何かが終わったのだと、私は感じた。
それが何かはわからない。だけど、私が抱えてきたはずの過去の罪の何かが、今ここで沼に沈んで消えたのだ。
それ以降、また沼は何事もなかったかのように静かにそこにあるだけ。
私は、今度こそ振り返ることなく熊笹をかき分けて来た道を戻った。
定期券は、もう私にとって何の意味ももたなかった。こんなものを持っていなくても、私の罪はいつだって私の心にしっかりと刻まれている。それに、どこへも行けない私が持っているべきものではない。
そう思っていた時だった。ちょうどすれ違う人の手が見えた。紺色の制服の袖口を見れば、それは女子高生のようだ。反射的に、私はその定期券を渡していた。
「わたしにはもういらないの」
彼女は、ちょっと驚いた顔をした。私は何も聞かれたくなかったから、足早にその場を離れた。彼女が定期券をどうするか、もう私には関係の無いことだ。そう、あれはもう私のものではないのだから。
定期券を持たない私は、少しだけ町の中を歩いてみた。
昔遊んだ公園、友達がたくさん住んでいた工場の社宅アパート、冬にスキーをして遊んだ駐車場、飽きもせずに通った廃屋の「お化け屋敷」、そしていつも見上げていた工場。そこはもう、ただの更地だったけど。
ふいに、懐かしい風の匂いがした。
そうだ、この町は焦げ臭くなる前はずっと清々しい風が吹いていたのだ。そのことを、ずいぶんと長い間忘れていた。
この気持ちの良い風の中を、幼かった私たちはよく駆け回っていた。
でも、ゆみちゃんはもういない。
あの頃のことを懐かしく話せる大事な友達は、ずっとあの時間の中で止まってしまっているのだ。
そして私の手にはもう、何も無かった。何も残らなかった。
だから私は、東京に帰ることにした。
*補足*
文中で汽車と表記しているものは、すべて電車の北海道方言です。
また、道道とは県道の北海道版です。
第三章「有無」へ