青い窓がひらく

作・鹿彩もす


1. 黒い点がひらく

 青年は夕陽を見ていた。
 杭を並べたような街の最上階に立って、赤一色の世界を見下ろしていた。細い長身が彫像のように最上階の西側を飾っている。
 地上のすべてを影にして、金の太陽が空を真紅に焼き尽くす。
 これほど見事な夕焼けを見るのは、月生まれの彼には初めてのことだ。伏していた目を見開き、痩せた顔に感動を浮かべ、青年は赤い太陽に魅入っていた。
 しかし、どんなに美しい光景でも、黒い点が汚してしまうのが、悔しかった。

 彼の視界の右下には、いつも小さな黒い点がある。
 半年前、高出力レーザー銃の点検中に、事故でビームを目に当ててしまった。失明こそしなかったが、ビームの当たった痕が盲点となって視界に焼きついたのだ。
 宇宙戦闘機パイロット・ゼルの人生は、そこでぱちんと切り落とされた。真っ逆さまに落ちぶれて、辺境の偵察を命じられたのを機に、生まれ育った月を飛び出した。宛てもなく方々を彷徨った挙句、半ば墜落しながらこの街に降りてきた。
 いま、世界を染め上げるほどの光源を前に、錆びた心が僅かにでも動いたことは、彼にとって幸運であった。小さな余裕が、彼に運命の繋がる音を気づかせたのだ。

 ガチャン。
 背後で鈍い金属音がした。そういえば、ずっとカチカチとチェーンの巻きつく音がしていた。いまのガチャンでそれが止まったらしい。
 青年は初めて太陽から目をそらし、ゆっくりと背後を向いた。習慣で腰の銃に手が乗ったが、敢えて取り出さなかった。
 正面に、小さな人影。
 襤褸を纏った少年だった。眩しそうに顔を手で隠していたが、ゼルの姿を確認すると、簡素な滑車エレベーターの上皿から飛び降りた。カツンと足音が響く。それから真っ直ぐに7歩。ゼルの前で立ち止まった。
 少年が懐からなにかを取り出す。
 ―――銃か。ナイフか。
 ゼルは耳の奥が縮むような戦場の緊張感を思い出しながらも、まだ銃は取らずにいた。いまさら死など恐れていない。
 自分の命であったパイロットの証、金の鳥をかたどった徽章を上官のデスクに置いた空しさに比べたら、この世の全てが輝いている。見知らぬ街で見知らぬ少年に殺されるとしても、惜しむためのプライドがもう残っていなかった。
 ゼルは、襤褸の隙間から覗いた少年の左瞳が、夕陽を反射して光るのをただ見ていた。

 ……が、期待に反して、なにも起こらなかった。
 少年が差し出したのは紙きれ一つ。
「どうか、この定期券を」
 小さな手に少し余るくらいの青白い通行証には、掠れた文字で「ソラノナカマチ」と書いてあった。
 ゼルは自分がどんなに荒んでいたか、ようやく認識した。己を恥じ、姿勢を整えて、できるだけ静かな声で少年に聞いた。
「なぜ、自分に?」
「最上階にいる人なら、この定期券を使ってくれると思って」
 少年は迷わずに答えた。
 ふわりと彼の髪が風で踊り、右目が見えた。
 正確には、「なかった」。
 少年の右目があるべき場所は、暗く穿たれて、瞼が力なく垂れていた。
 まるで銃口だ。
「目を失うことに比べたら、小さな盲点の一つがなんだ。戦え。戦って死ね!」
 と怒鳴りつける上官の声が脳内で響いた。
 そう言ってくれたらどんなに良かったか。現実は違った。盲点の一つくらいで、自分の操縦が乱れることはない、戦場に戻して欲しいと何度も申し立てたのに、容れられなかった。ここのところ優勢になった月には優秀なパイロットが大勢控えていて、キズモノを飛ばす理由がなかったのだ。目に障害ができたとわかったとき、死ぬことを教えた上官が、笑いもせずに生きることを勧めた。
 ……ああ、くだらないことを思い出した。
 美しい夕焼けで溶けかけた心が、再び強張ってしまう。
 気持ちを切り替えようとしても、どうせ視界の端には黒い点。打ち砕かれたパイロットの誇りが、いつまでも執念深く燻っている―――。

 ところが、今日は違った。

 ゼルは気づいた。自分が過去を蒸し返している間、少年に残された左目が、澄んだ青色でじっと彼を映していたことに。なかなか定期券を受け取らないことを咎めもせず、急かしもせず、彼を信じて待っていた。
 その瞳に映りこむ青を見たとき、いつもの黒い点が、光った。大犬座のシリウスのように青白く、強い輝きで。
 なぜか?
 光の源は、少年の手に載った小さなカード。ソラノナカマチへと続く定期券だった。
 ゼルは目が落ちるほど瞼を上げ、定期券の方を向きながら、右下を凝視した。
 盲点が消えている。つまり、見えている!
 恐ろしいほどの喜びだった。
 ゼルは少年から奪うように定期を取り上げ、さらに見た。角度を変えたり、手で覆ったりすると、黒点に戻った。慌てて紙面を目に向けると、盲点が嘘のように光りだす。
 どうやら、定期券の反射する特定の光の波長に限って認識できるようだ。
 彼の盲点は、完全に死んではいなかったのだ。
「ソラノナカマチ」
 ゼルは口に出して未来の名前を言った。彼の人生を奪った盲点を消してくれた定期券が、聖地への巡礼証のように感じられた。
「ありがとう、きっと行ってみせる!」
 十年ぶりの明るい声で礼を言うと、少年は左目を丸めて瞬いたが、やがて笑った。
「うん」
 ゼルは太陽に向き直り、腕時計のCALLキーを押した。
 ピピッピピッ。と了解の合図。
 それから五秒と待たずに、彼の偵察機が飛来した。この街に降りたときに乗り捨てたのだが、すぐ下層で待機していたようだ。空中で静止し、オートでコックピットを開放する。
 ゼルは身軽に飛び乗った。同時に発進の準備をする。戦闘機乗りにとっての偵察機など、寝ていても操作できる玩具だ。半年ぶりに意志を持って握る操縦桿は、軽すぎるくらいだった。
「おかえり、ゼル」
 生体認証を終えて、戦術AI(人工知能)のχ(カイ)-M56が明るい声で出迎えた。かつての愛機に搭載されていたバージョンより一世代前のものだが、話し方がぎこちないくらいで、航行に支障はないのが救いだ。
「発進するよ、χ」
「目的地は月、ですか?」
「いや。ソラノナカマチへ行こう」


2. 宇宙がひらく

 ソラノナカマチは「宇宙の中街」という意味だ。
 近年、人類は宇宙に進出し、月、火星、金星……次々と住処を広げていた。
 地球の外は真空。人は宇宙空間に大気と、約20℃の温度と、重力を作った。すなわち、地球の環境を人工的に作り出したのだ。やがて雨を降らせ、植物を植え、川を作り、朝と夜をディスプレイした。地球の外で地球と同じ生活をすることが、最高の贅沢だった時代である。

 その中で、真空に住むことを選ぶ者が現れた。
 常に宇宙服を纏い、呼吸用の空気から栄養と水分を摂り、時間の感覚を棄て、重力の束縛から解放されて宇宙空間を浮遊し生きる人々だ。
 はじめは誰もが酔狂だと嘲り、真空=VACCUMに住むことから「ヴァック」という蔑称で呼んだりしていたが、二つの要因でその人数は急増した。
 一つは、先駆的なヴァックの一人が「空気の結晶」=「エアクリスタル」を発明したことだ。エアクリスタルは人間の呼吸に最適な混合比の空気を結晶化させたもので、豆つぶの容積で大人一人が一週間は呼吸できる。この結晶の最大の利点は、結晶の隙間にたんぱく質やビタミンといった栄養素クラスターを添加すれば、呼吸と同時に栄養を補給できることだ。この発明によって、人は長時間の宇宙生活が可能になった。
 もう一つは、ヴァックが新しい人類として進化しつつあるという噂である。数年以上ヴァックとして宇宙で生きた者は、可視光が赤外線や紫外線にも達し、引力への知覚が優れ、天才的な頭脳を持ち、未来を予知すると騒がれた。一説によると、DNAにも変化が現れているらしい。一方で、宇宙線で病気になりやすいとか、暴力的だという説もあり、最近ではヴァックが次々と行方不明になっていると問題視されている。
 事実はどうあれ、物理や生命科学の研究者、医者、精神科医、あるいは単に自由を求める人が、次々とヴァックになっていったのだった。
 そうして彼らが集まってできたのが、宇宙の中街である。

「材料分析、終了」
 χが定期券を検査し終わった。
「このカードの主成分は……窒素、酸素、です。炭素も数パーセント混在」
「ということは、エアクリスタルでできてる?」
 ゼルは改めて、青白い紙の表裏を眺めた。普通の紙よりも滑らかだが、不透明だ。空気でできているとは思えない。
 彼はおもむろにコントロールパネルの右端に手を伸ばして、「AIR」と書かれた引き出しを開けた。中にはワインボトルを冷やす氷のように、透明なエアクリスタルの球が一杯に入っている。偵察機内が一気圧より下がると、エアクリスタル球は自動的に昇華を始め、気圧を一定に保ってくれる。ヴァックの発明だが、最近では広く軍にも用いられている。
 ただし、エアクリスタルに栄養を混ぜるのはヴァックくらいだ。ゼルもまだ実物を見たことはないが、栄養入りエアクリスタルにはガラス細工のようにカラフルな色がついているらしい。
 想像するたびに、一生食べたくない、とゼルは顔をしかめる。月生まれは総じて能天気で味覚音痴だと地球生まれからバカにされるが、自分は繊細な方だと思っているのだ。パンや肉の匂いのする空気で腹が一杯になるとは考えられないし、そんな事実を許せないだろう。ケースには透明なエアクリスタルだけだと確認して、少し安心する。
 ゼルは中から一粒を指でつまんで、定期券とじっくり見比べた。
 が、似ても似つかなかった。外見に加え、ゼルの盲点の反応も違った。定期券を見るとゼルの盲点はなくなるが、エアクリスタルを見ても黒い点のままだ。
 不審がる間に、χは説明を続ける。
「呼吸用エアクリスタルには水蒸気が含まれています。このカードに水蒸気は含まれていません。酸素と窒素をそれぞれ単結合で長く繋いだものが、複雑な結晶を構成しています。よって、一般的なエアクリスタルより安定です。圧力変化では気化しません」
「酸素の糸と窒素の糸で織った繊維っていうこと?」
 構成元素が同じでも、炭とダイヤモンドのように、結晶の形が違うと全く別物になるというところは、従来の科学と矛盾しないが―――不思議な紙だ。
「この結晶が反射する光だけが、僕の盲点に反応するんだ。χ、光学測定の結果は?」
「結果を表示します」
 ディスプレイにグラフが映る。光の波長ごとに強度を分析したものだ。どの波長も平均的に反射しているが、僅かに青〜紫の部分が強いので、青白く見えることが説明できる。
「測定範囲を可視光の外に広げてみて」
 ゼルは試しに命令した。人間の可視光はおよそ380〜780nmであり、これより短いと紫外線、長いと赤外線である。
「了解。赤外線、紫外線領域を表示します」
 通常は目に見えない光の領域。そこに強度が出ていたとしても、人間は感知しないはずだが……。
「軟X線領域にピークあり」
 χが答えた。
 それだ! この盲点が見ている光は。
「χ、その波長の光だけを、この空域で観測して」
「了解。100nm±20nmの範囲で光学データを収集します」
 ゼルは身を乗り出して、測定結果に見入った。
 繊維型エアクリスタル、とでも呼ぼうか。この定期券を作ったヴァックたちの街、宇宙の中街に行けば、自分の目は欠陥品でなくなるかもしれない。もしかしたらこの盲点が治るかもしれないなどと、淡い期待でゼルの胸は一杯になった。
 空気で腹は満たされないが、夢で調子が上がるところは、やはり月生まれなのだろう。


3. 時間がひらく

 しばらくは航行を続けながら、χがその遠紫外線を探しあてるのを待っていた。
 ゼルも偵察機のコックピットから宇宙空間を眺めていたが、窓ガラスが可視光以外を完全にカットすることを思い出し、諦めて横になった。
 そして、まだ見ぬ宇宙の中街のことを考えた。

 彼らは一箇所に留まらず、遊泳し、離散し、集合し、また別の場所に流れる。
 しかし、あてもなく彷徨っているのでは、完全なる孤独に耐え切れなくなるだろう。また、彼らのエアクリスタルも無尽蔵ではない。誰かが作り続けなければならない。
 すると、ヴァックは定期的にエアクリスタル精製装置に集まるのではないだろうか。そこで何ヶ月か何年分か、エアクリスタルをもらって宇宙へ散っていくのではないか。もらうといっても、無償のはずがない。軍でさえ、空気が兵器より高くつくと、戦闘機の無人化を進めているほどだ。ならば、代償となるものが漂流者にあるのだろうか?
 ヴァックにはある―――進化だ。
 たとえば、生物や物理の学会から援助が出ているのかもしれない。どこかの国の政府ということもありうる。月政府は特に地球への劣等感が強いから、進化と聞いて躍起になる可能性が高い。
 どこでもいいが、もし社会が管理しているのならば、ヴァックにもIDが必要だ。誰がいつどれだけの量を受け取ったのかを記録したり、本人確認をしなければならない。
 それがこの定期券なのではないだろうか。
「χ、この推理どうかな?」
 χは光学センサの検出データを分析しながらも、ゼルの独り言を冷静に判定した。
「宇宙の中街にエアクリスタルの製造装置がある、という可能性は92%。エアクリスタルが彼らの生活に不可欠であるため、その周囲に存在することは合理的です。一方、定期券がIDである、という可能性は21%。政府が援助すると仮定しても、政府側の人間のIDである、IDが存在しない等の可能性が考えられます。ある論文では、この繊維の配列を電気的に操作することで、どんな電子ロックも解除できるようになることが明らかになっており、鍵としての役割も考えられます」
「なるほど。そいつは便利だ。一緒に強盗でもやろうか?」
「強盗は犯罪です」
 残念ながら、χ-M56はジョークの一つも理解できない。
 だが、型落ちAIとも、もうじきお別れかもしれないのだ。
 気分がいいので、ちょっと優雅にコーヒーでも淹れようかと思ったとき。
「指定波長の反応があります」
 χの落ち着いた声に、ゼルは大慌てでディスプレイを覗き込んだ。先程と似た波形が出ている。この定期券と同じ繊維型エアクリスタルが存在しているのだ。
「χ、ゆっくり近づいて」
「了解」
 自動操縦に設定すると、χは偵察機を月の重力圏から僅かに逸れた、デブリ(宇宙ゴミ)だらけの空域に導いた。漂流には適している。
 ゼルは外を気にしながら宇宙服に着替えた。ヘルメットのバイザーの光学設定に、先程の遠紫外線の波長を登録し、見えるようにしておく(「窓をあける、ひらく」とも言う)。もとはレーザービームの軌跡を目視するための機能だが、まさにそれが要因でパイロットを辞めさせられたゼルは、以後この設定をほとんど使ったことがない。皮肉にも、ビームで焼けた盲点で見るために、再度窓をあけることになるとは……。

 しかし、コックピットを開いて宇宙空間に飛び出したとき、ゼルは過去を忘れた。

 黒い宇宙空間に、まばゆい青色の宝石が無数に散っていた。青に混じって、稀に赤、黄、紫、白、透明なものもある。大きさは粉のような粒から拳大までまちまちだ。そのすべてが、夜の街を飾るネオンのように、きらきらちかちか、光っていた。χが示す地点に最も多く、そこから放射状に広がっている。夜景そのものだった。
 ―――ああ、だから宇宙の中街か。
 思わず呟きながら、近くに浮いていた粒の一つを手で捕らえた。発光デバイスのように輝いているが、実体はAIRケースのクリスタルにそっくりの透明な球だった。呼応するように、定期券も同じ色で輝いている。もちろん、彼の盲点も認識している。
 夢見心地のまま、中心地点へと向かって行った。
 コツ、コツとバイザーに当たるのを避けきれないほど、中心部は無数のエアクリスタルで溢れている。明るすぎて偵察機の位置もわからなくなったが、ゼルは迷わず進んだ。
 彼の予測どおり、中心には装置があった。人より少し大きい銀の直方体で、扉が一つと、細い穴が一つ。細い穴は、カードリーダーの差込口にそっくりだ。
 ゼルは定期券をその穴に入れた。
 扉が勢いよく開き、エアクリスタルが飛び出した。装置の中は光で溢れていて、眩しすぎるくらいだ。やはり、これは大気の結晶化装置だったのだ。
 飛んできた大きめの塊がごつんとヘルメットに衝突して、ゼルは少し冷静になった。
 ちょっと待てよ。
「『原料』はどこから仕入れているんだ?」
 ゼルは扉の中からクリスタルを掻き出して中を見渡したり、装置のまわりを一周して調べてみたが、配管やポンプ、エネルギータンクと制御コンピュータがあるくらいで、肝心の窒素や酸素が存在していなかった。それなのに、いまもまた一つ、さらに一つと青い結晶が飛び出してくる。小さな粒でも大量の空気分子を含んでいるのだ。この空域に浮いているだけでも、小規模の居住区を満たす量に達するだろう。
 それだけの空気が、この宇宙のどこにある?
「まさか……」
 ゼルは、エアクリスタルが飛び出した配管の一番奥に、裏側から銃を向けた。
 キィィン!!!
 張り裂ける音とともに、銃口からレーザービームが発射された。装置の内部が赤く光り、音もなく溶けていく。バルブが焼け落ち、内壁が一枚めくれた。
 その「隙間」はあまりに眩しく―――青い空を、映していた。


4. 空がひらく

「あっ」
 小学校の通学中に寄り道をしていた美智は、雷かと思って目を閉じた。
 まだ人類のほとんどが、宇宙に行ったことのない時代。
 恐る恐る目を開けても、空は青い。雷とは無縁の晴天だ。雪だるまを作っていた手を休め、なんども辺りを見渡したが、他に光りそうなものもない。
 気のせいか、と納得してまた雪に目を向けると……。

 彼女の目の前に、雪の滝ができていた。それも、下から上へ流れる滝だ。柱のように、雪が美智の背より少し高いところに吸い込まれている。
 不思議というよりも、きらきらと雪の結晶が舞い流れて光って、きれいだった。クリスマスも正月もおあずけだった美智には、贈り物にさえ見えた。
 なにも考えずに、立ち昇る雪に手を入れていた。
 途端、強い風が吹いた。力強い父に持ち上げられるように美智の体がふわりと浮いて、一気に吸い上げられた。
「わっ!」
 足をばたつかせるが、空中ではふんばれない。滑り台みたいに止められない。焦りで胸がぎゅっと縮んだ。あっという間に自分の背より高く浮上した。
 どこへ連れて行かれるのかと見上げると、洋服が避けたような真っ黒の穴が開いている。
 怖い。その先はヤバイと直感した。
「やだっ!お父さあんっ!!」
 思いきりもがいても、一緒に吸い込まれていく雪の柱が、蹴飛ばされて飛び散るくらいだった。
 ―――死ぬ!
 真に迫ったとき、美智は「隙間」を見上げた。
 死んだ母がいるかもしれないと思ったのだ。
 母は見えなかったが、代わりに彼女は光を見つけた。暗い穴の中できらきらと、たぶんあれは星だ。
 そして、人影も見えた。
「誰かいる!」
 急に気持ちが楽になって、美智の手がするりと「隙間」に吸い込まれそうになった。その「境界」はものすごく冷たく、指が張り裂けそうに痛んだ。
「あぶない! 手を出すな!」
 と男の声がした。隣のクラスのちょっとかっこいい先生に似た声だった。その後で、「ちくしょう、やっぱり地球か!」という愚痴も聞こえた。
「吸い込まれるの!」
 大人がいるとわかって、美智は安心と恐怖から泣きそうになった。
 半べその美智の手を、白い手袋の大きな手がぐっと押し出してくれた。ちょうど「隙間」の「境界」で手のひらを合わせている格好だ。まだ浮いたままだが、痛みはなくなった。
 改めて見ると、「隙間」の向こうに、青年のF-1レーサーのような姿があった。宇宙服だ、とわかったのは、彼のまわりが真っ暗な闇で、宝石のような青い星が輝いていたからだ。写真で見る宇宙よりずっときれいだった。
「大丈夫。いま閉じるから」
 美智の体を支えながら、青年は余った手で小さなカードを取り出した。
 途端に、風が止み、美智の体は雪の上に落ちた。
「ふう……」
 溜息が出た。本当に、死ぬかと思った。
「カイ、向こう側と位置座標が一致したんだろう?」
「はい。1000年以上前、地球がこの位置に来た瞬間と繋がっています」
「ヴァックめ……だから宇宙の至るところに生活できるのか。ランダムな浮遊だと思ってたが、地球の軌道上を選んでたんだな」
 青年が隣の誰かと話しているのが聞こえる。
 その誰かを見ようとして、「隙間」の端に雪のつぶてが凍りついて、徐々に小さくなっていることに気づいた。思わず声を上げる。聞きたいことがたくさんある。
「ねえ、お兄ちゃん!」
「なんだい、大昔の地球人」
「お兄ちゃんは未来の宇宙にいるの?」
 青年は少し驚いて、笑った。
「……ものわかりがいいね、お嬢さん」
「お父さんが、そういうお話好きだから」
 美智の父はSF映画の監督だ。美智はエイリアンとかパラレルワールドとか、ありそうでなさそうな科学の物語を聞かされて育った。女の子が変身するアニメよりも、宇宙戦争やサイコキネシスの方が馴染み深い。だからいまの状況も、なんとなく納得できた。タイムリープ(時間転移)とかいうやつだ、と美智は思い出した。そして、急に不安になった。
「地球は、なくなっちゃうの?」
 未来に行ったら文明が滅んでいた、という話はよくあるが、宇宙だったなんて絶望的だ。
 青年はさも可笑しそうに答えた。
「大丈夫、地球はまだ元気だ。いまは……ここから1億キロメートルくらい離れたところにいるよ」
「そんなに、地球が動いたの?」
「君のいる地球だって、太陽のまわりを回っているだろ? 一年に一回しか同じ場所にはいないんだ。つまり、ちょうど1000年前じゃないってことだ」
 青年はちょっと横を向いて、何かを確認した。隣の「カイ」が教えてくれているのだろう。
「計算によると、地球は秒速30キロ、一日で約260万キロ動いてるから、1009年と38日後ってことになるかな。たぶん、わざとずらしてるんだろうが」
「なんで?」
 青年は手に持っていたカードを見せた。 
 青白い紙に、ソラノナカマチと書いているのが、微かに読めた。
「ここはソラノナカマチ。宇宙の中の街、宇宙空間に住む人たちの街だ」
「宇宙に住めるの? 私も行ってみたい!」
「そうかい?」
 喜ぶ美智に対し、あまり嬉しくなさそうに、青年は笑っていた。
「1000年前の地球から、空気を盗んでるのに?」
 空気を、盗む?
「ソラノナカマチには、呼吸用に空気を固める装置がある。地球の軌道上にその装置を置いておけば、いつかは必ず地球が通る瞬間がある。それまでの時間を計算して、つなげて、空気を吸い込んで使っているらしい。時間を超えるなんて信じられないが、場所を超えるよりも簡単なのかもしれないな」
 宇宙には空気がないのだから、地球の空気を使うのは仕方がないような気がする。でも、使いすぎて地球から空気がなくなってしまったら困る。
「ドロボウはダメだよ。盗むよりも、地球に来ちゃえばいいのに」
 美智が提案すると、青年は急に真剣になった。
「同じことを考えて、実行したやつはいるかもな……ただ、この『隙間』じゃない。ここは空気くらいの質量じゃないと通過できないらしい」
「さっき痛かったのは、そのせい?」
「そう。もう少し遅かったら、君の手はなくなっていたかも……」
 脅されて、思わず右手を見た。寒さで赤くなってはいるが、一応無事だ。しかし……。
「せっかく宇宙に行けると思ったのに……」
 美智があからさまに落胆したせいか、青年が提案した。
「そうだ! これ、あげるよ」
 青年がカードを「隙間」に差し込んだ。時間の壁などないみたいに、カードは「境界」をなんなく通ってこちら側へ来た。紙も軽いから通れたのだろうか。
「もし、宇宙から来たドロボウ野郎に会ったら見せてやれ。君をこっちへ連れてきてくれるかもしれない」
「そしたら、お兄ちゃんに会える?」
「いまの日付と場所を覚えておけばね」
 美智は迷った。この定期券を受け取ったら、青年とはお別れだとわかったからだ。
 俯いていると、ふいに青年がヘルメットを外した。
「お兄ちゃん、大丈夫なの!?」
 心配しながらも、美智は青年の顔を覚えようと必死に見つめた。隣のクラスの先生よりずっと若くてかっこよかった。黒い髪に黒い瞳、肌の色は白く、疲れ果てたように痩せていたが、優しく微笑んでいた。
「そっちから空気が大量に流れてきてるから。……これが、地球の空、地球の風か……」
「ちょっと雪も混じってるけど」
「最高だ」
 青年は実に幸せそうに深呼吸した。
 それを見て、美智は定期券を受け取る決意をした。背伸びをして、「境界」から半分飛び出した青白い定期券に触れる。氷のように冷たくなっていたが、しっかりとつかんで引き抜いた。
「お兄ちゃん、ありがと」
 青年が満足そうに頷いて、再びヘルメットをかぶり直した。
「自分はゼル。地球に生えてる樹の名前からとった名前らしいよ。ケヤキ、って樹」
「zelkova!」美智はSF好きな父に連れられて、アメリカに住んでいたことがある。すぐに欅(けやき)の英語名が思いついて、納得した。
「ああ、だからそんなにイルミネーションなんだ!」
 美智が笑うと、ゼルは一瞬理由がわからなかったようだが、後ろを振り返って、こちらを向き直って、苦笑した。彼のまわりは、やりすぎた電飾みたいだ。
「私は美智だよ、覚えといてね!」
「ミチ、UNKNOWNか。パイロットにとっては不吉な名前だ。絶対に忘れないよ」
 ゼルはぴたりと語源を言い当てた。もちろん父の好みでつけられた名だ。正直、あまり好きではないが、ゼルにわかってもらえたのは、少し嬉しかった。
「ゼルはパイロットなの?」
「一応ね……」
 しばし自嘲する表情になったが、ゼルは答えを見つけたように強気になった。
「いや、間違いなくパイロットだ。これから、ソラノナカマチとケンカしに行ってくるよ」
「ドロボウ退治?」
「そういうこと。美智は本当に賢いな」
 褒められて、気持ちが明るくなる。
 そんな二人の間で、「隙間」は確実に狭まっていた。舞い上がった雪がどんどん凍りついて、不自然なつながりを塞いでいく。
「ゼル、カイも、またね!」
「ああ、月を見たら思い出せよ。1000年後の宇宙を」
 そういえば、欅の別名は槻(つき)だったな、と美智は思った。
「時間の異常が回復します。ゼル、美智、ご注意ください」

* * *

 美智は一人で雪に座りこんでいた。
 何度見上げても、もう「隙間」はない。
 空の真ん中で太陽が輝いている。すっかり昼を過ぎてしまった。いまさら学校に行っても怒られるだけだ。
 家に帰ろうと立ち上がると、服の上からぽろぽろとビー玉のようなものが落ちた。ビー玉というより電球のように、青白く光っている。
「ゼルの電飾だ」
 思わず笑いながら、拾い集めた。
 ふと、父にプレゼントしようと思いついた。頑固でヒゲもじゃのSFオタクだが、妻をなくしてからはずいぶん家庭的になった。最近カレーライスの腕を上げてきたことは美智の自慢でもある。なにより彼の750ccの後ろに乗って、一緒にツーリングするのが美智は大好きだった。
 ビー玉をポケットの中に落とし、手にしっかり持っていた定期券はランドセルの時間割ポケットに入れ、かき氷のような雪の上を走り出した。
 ゼルの言うことが本当なら、ソラノナカマチから旅人が来ているかもしれないのだ。未来の宇宙人が。こうなっては、いてもたってもいられない。
「お父さん、ソラノナカマチを探しに行こ!」
 黒いサングラスとライダースーツ、黒い750ccにまたがる大柄の男は、美智が駆け寄ると僅かに表情を緩めた。
「なにを探すって?」緩めた表情が強張る。
「ソ・ラ・ノ・ナ・カ・マ・チ! いますぐ出発出発!」

* * *

 それから、美智は時間を見つけては父のバイクで旅をした。
 ソラノナカマチ、というキーワードだけで、いるかどうかもわからない人物を探すのは困難だとわかっている。が、冒険好きの父も協力を惜しまず、曖昧でも目的あっての親子の二人旅は、それだけで楽しかった。
 だから、半年後、再びソラノナカマチという言葉を聞いたときは驚いた。
 夏の暑い日だった。旅先で切符を交換しているという旅人たちの話で、ソラノナカマチについて知っている男がいるとわかった。名を守本征夫。そこまで明らかになると、親子は探偵気分で、学校も仕事もそっちのけで探した。守本征夫さんは根っからの旅人で、ほとんど定住していないらしい。
 なんとか彼が世話になっているという親戚の家を探しあてた頃には、さらに半年が経っていた。
 美智がその家のインターホンを鳴らそうとすると、運よく家から誰かが出てきた。どうやらこの家の娘だ。美智と同じ歳か、少し下だろうか。見知らぬ訪問客に驚いているようだった。
 美智はできるだけ明るく挨拶をした。
「はじめまして。ここは、守本征夫さんのお家ですか?」
「伯父さんはここには住んでません」
 少女はさらに意外そうに答えた。もういないらしい。残念だ。
 だが、この少女も、その血を引いているかもしれない。
 考えるだけで美智は笑顔になった。
「これを伯父さんに渡してもらえませんか」
 美智ははじめ、ソラノナカマチの人に会ったら、未来に連れて行ってもらうつもりだった。しかし、長らく旅をしているうちに、もう必要ないと思うようになった。だからソラノナカマチの人に返そうと思っていたのだ。
「でも伯父さん、今度いつ来るかわかりません」
「渡すのはいつでもいいです。お願いします」
 美智はぺこりと頭を下げて、路肩に停車する父のバイクへ走って戻った。
「いいのか? あげちゃって」
 父は美智の話を信じてくれていたから、あの定期券がどんなに貴重かわかっている。それでも美智は未練を感じなかった。
「だってね、私、見えるんだもん。空の『隙間』」
 実は彼女もまた、目に黒点を焼き付けていた。
 ゼルと美智が出会ったあの日。ゼルがエアクリスタル精製装置めがけて放ったレーザーが「隙間」を透過し、雪に反射して、美智の目に小さな痕をつけた。ある特定の波長だけが見える、不思議な盲点を。
 このソラノナカマチを探す旅の途中で、美智は何度か宙に浮かぶ「隙間」を見かけた。あのときほど大きな「隙間」ではないが、青白く光る星空が見えたことはある。次第に、その方向を向くと盲点が消えると気づいた。
 だから、定期券はもういらない。美智には、未来へのつながりが見える。
 もしも誰かがそこから出てきたら、一番にドロボウ呼ばわりしてやるのだ。きっとびっくりするに違いない。そして、彼女が未来を知っていると、わかってくれるだろう。そのときは、お父さんと二人で、ゼルのいる未来へ案内してもらおうと計画していた。

 ソラノナカマチは、いつも地球の空とつながっている。


Fin.


第八章「坂の町」へ