坂の町

作・竹中針恵


 人生初の帰省で、久し振りにユキ伯父の名前を聞いた。親戚はたいてい、住んでいる地名で「神戸のおばさん」とか呼んだりするものだけれど、仕事で国内・国外を問わず転々としていたユキ伯父については、ずっと名前で呼んでいる。それが、つい先月、実家からバスで一時間くらいの町に越してきたのだという。
「相変わらずおしゃべりだったよ」
 そう言いながら母は、豪快な大きさのヤカンで煮出した麦茶をペットボトルにつぎ分けようとした。
「あ、私やるよ。貸して」
 家具も道具もすっかり一人暮らしサイズの物に慣れていた私の目には、母の手はヤカンに対してあまりに小さく見えた。
 ヤカンはうまく傾けないとぐらぐらして危なっかしい。三リットルをつぎ終わったときには、少々汗をかいていた。筋肉痛になりそうな感じだ。
「三人になってもこんなに麦茶飲んでた?」
「ヒロが帰ってきたらたくさん飲むからね。学校にも毎日一リットルくらい持っていくし」
「持っていくっていうのが凄いよね。筋トレにもなるのかも知れないけど」
 弟は野球部の合宿中で明日帰ってくるとかで、まだ顔を合わせていない。ただ帰ってきたとき、玄関の靴が増えた上、巨大化したな、と思った。この分だと弟はさぞ可愛くなくなっているだろう、という気もするし、別に変わっていなさそうな気もする。
「で、伯父さんのことなんだけどね。お姉ちゃん、明日伯父さんの所にいってくれない?」
「はい? 別にいいけど、なんで?」
「山形のお煎餅、持って行って」
「えぇ? なんで山形」
「お父さんと二人で行ってきたの。ちょうどヒロもいなかったし。あんたが今日帰ってくるんじゃなければもう一泊してきたんだけどねー」
「ええー?」


 両親は、長女がいない生活を結構満喫していたらしい。素敵なご夫婦ですね。自分の煎餅を確保して、私は久しぶりの自分の部屋に入った。部屋には、私が置いていったものがそのまま置いてある。覚えのない段ボール箱もいくつか置いてある。少しずつ物置にされているのだろうか。まずはベッドまでの通路をあけるため、一番大きい段ボール箱を壁に寄せた。重い。開けてみると、中身は古いアルバムや絵本だった。懐かしいどころか、ほとんど記憶にないものも多い。
 適当に手に取ったアルバムには、私と弟が小学生だったころの日付が入っていた。あのころの家は今よりずっと散らかっていたし騒がしかっただろうけれど、写真には意外と片付いた室内が写っている。ひな祭りやこどもの日の写真、何の記念かわからないが、弟と一緒にきちんとお座りしている写真。特に記録もついていないし、なぜ自宅で写真を撮り、それを保存しておくのかよくわからない。
 いくつかの写真には、「征夫(ゆきお)おじさん」というメモがついていた。伯父は写っていないから、きっと撮ってもらったのだろう。そういえば、よく家に遊びに来ていた時期があった。近くに住んでいたのかもしれないが、こちらから遊びに行ったことは一度もない。
「じゃ、いっぺんお邪魔しにいってみますか」
 そういって勢いよく立ち上がった途端、転びそうになった。しゃがみこんでアルバムを見ている間に、足が痺れていたのだ。なんとか立ち直って、アルバムを置こうとしたとき、ページの隙間から紙の端がはみ出しているのに気づいた。写真ではない。水色の厚紙で、かすれてほとんど読めないが、日付らしい数字が書いてある。定期券だ。
 どきりとした。長いこと忘れていたものが、不意に現れたのだ。忘れていて困るものではない。それでも妙に胸が騒ぐのは、その定期券を受け取ったときの、どこか不思議な、夢のような雰囲気を思い出すからだろうか。
 そのとき、私は家の前に立っていた。出かけるところだったのか帰ってきたところだったのかは覚えていない。家の前で、知らない人に声をかけられた。怖くはなかったが不思議だったのは、守本征夫さんのお宅はこちらですか、と尋ねられたからだ。表札があるじゃん、と思いながら、
「伯父さんはここには住んでません」
と、おとなしく答えた。
「それではすみませんが、これを伯父さんに渡してもらえませんか」
 そう言いながら、水色の小さい紙を渡された。定期券だということはわかったから、落し物を拾ったのかな、と思った。
「でも伯父さん、今度いつ来るかわかりません」
「いいんですよ、渡すのはいつでも」
 にっこり笑って言われたので、ついそのまま受け取った。家族には何も言わなかった。冷静に考えれば怪しい話ではあるけれど、なぜかあまり気にならなかった。伯父さんもどこか不思議な人だから、不思議な知り合いがいるのかな、と思った記憶がある。当時の私は、黙っていることで、その不思議な気分を楽しんでいたのだろう。
 伯父には直接会ったときに伝えるつもりだったが、その後しばらくして、伯父はあちこちの土地をめぐる生活に戻ってしまった。よく遊んだ時期の方が限られていたのだ。手紙や電話は来たけれど、こちらから連絡することはほとんどなく、定期券のことはずっと言いそびれたままだった。
「まあ、明日持って行けばいいよね」
 伯父はこれがなくて困っただろうか。それとも大したものではなかったのだろうか。楽しみなような不安なような気分で、私はそれを鞄のポケットに入れた。

                    *

 バスで一時間。そのほとんどは高速道路を通るから、実際の距離は結構ある。町を見下ろしながら、バスは山に向かって坂道を登っていく。カーブを曲がるたびに、空が広くなる。本を読むとバス酔いする方だから、到着まで景色でも見ているしかない。私は、ぼんやりと昔伯父から聞いた話を思い出していた。
伯父はよく、地図や写真を見ながら、いろんなところに旅に行ったときの話をしてくれた。その話は各地の伝説や昔話にも及び、いつの間にか勝手な創作になることもあった。「空の中町」の話は、中でも好評で(身内限定)、しばらく続いたシリーズだった。
――海の上の空のずっと高いところに、空の中町という町がありました。そこには、ハルちゃんとヒロ君というきょうだいが住んでいました。
 法事やお正月で、年の近い従兄弟が集まるときには、みんな強制的に登場させられる。住民たちは砂漠の上空で水を撒いたり、迷子のプテラノドンを保護したり、エベレストに住む謎の科学者に遭遇したり、聞いていたときはなかなか面白かったけれど、今思い出せるところだけ取り出しても、他愛ないという感じしかしない。
その後、町は海の中に潜入して「海の中町」となり、大鯨に飲まれて「お腹の中町」になったころ、伯父は遊びに来なくなり、住民たちの運命は、誰も知らない。そして伯父の現住所は、何の冗談か知らないが「ツヅキ市 ハラ ナカマチ」という。

地形に起伏の多いこのあたりで、伯父の家は高台の上の、平らになった所にあった。近くまでバスが通っていて助かった。小学校の裏を通ってしばらく歩くと、伯父は家の庭に出て待っていた。
「やあ晴ちゃん、久しぶり。きれいになったね。厳しそうなところがいいねえ」
 ほめられているのだろうか。子供のころ以来の伯父は、変わらず陽気にあいさつをした。一応成長している私は、とりあえず礼儀正しく、お久しぶりです、と返した。
 家は中古だったらしい。きれいに内装されていたが、通された座敷は古風な感じだった。二人きりで会うのは初めてだったけれど、コーヒーを淹れてもらい、ばりばり音を立ててお煎餅を食べているうちに、かすかにあったよそよそしい気分も消えていった。
「伯父さん、ここに来る前はどこにいたんですか?」
「カナダにいたよ。水がすごくきれいだった」
「いいな。私の大学でも、短期留学でカナダに行けるんですよ。今はまだいろいろ調べてるところですけど」
「そうか。カナダはやっぱりグリズリーだねえ。強くて格好いいよ」
「そこは『赤毛のアン』とか言いましょうよ」
「晴ちゃんは昔から、アンが石盤でギルバートの頭をかち割るところが好きだったじゃないか」
「いや、割ったのは頭じゃないから……」
 まあ、読んでいて一番楽しかったのがそのシーンだったのは認める。覚えられているのはしゃくに障るけれど。
 足が痺れてきて、ひざを崩した。楽な姿勢で、この部屋の眺めを見るのは気持ちが良かった。住宅街の町並みがきれいに続いていて、坂の下のほうには時計塔が見える。
「コーヒーもう一杯いるかい?」
「あ、下さい。すごくおいしいです。お煎餅に意外と合うんですね」
 ブラックコーヒーの苦味が、お煎餅の粉っぽさを洗い流して、甘さや辛さを際立たせている。
「だろう。反省しなさい。さっき僕がコーヒーを淹れると言ったとき、晴ちゃんはすごく不審そうな目をしていたよ。『何を言い出すんだこのおっさん』みたいなね」
「おっさんまでは言わないけどなあ。……私が未熟者でした」
「ところで、この家の和室を利用して喫茶店をやってみようかとも思ってるんだけど、どう思う」
「え? 和室でですか?」
 私はまた、不審そうな目に戻っていたに違いない。
「金沢には結構あったんだよ。畳敷きの喫茶店がね」
「えー、どうでしょう。金沢なら行ってみたいけど、ここででしょう? うーん」
 想像にしばらく苦労したあげく、話題を変えることにした。伯父の向こうに見える隣の部屋の壁は、地図と、切符らしい小さい紙がぎっしりと貼られているのが見える。さっきから気になっていた。
「あの壁、写真は貼らないんですか?」
「写真は別にしてある。地図は地図で見たほうが、想像力がかきたてられていい。切符があるだろう。行ったことがない場所のものもあるんだ。それがあると、途中で降りてしまっても、道はその先につながっているんだって思うよ。そして地図を見て、線路が通っているところ、通っていないところ、それぞれに生活があって、日常が繰り広げられているんだろうって考えてみる」
「行ったことのない駅の切符って、どうするんですか? 買うだけで使わないの?」
「交換する。実は、行く先々で交換相手に会うんだ。同好会みたいなものかな。『またどこかでお会いしましょう』と言い合って、別れる」
「ちょ、ちょっと待ってください。行く先々で会うって、その……。あの、実はすごく前に預かってたこの定期、持って来たんですけど……」
 話がよくわからない。突っ込もうにも突っ込みにくい。でも、何か重要なことを聞いている気がする。つながりがあるのかどうかも良くわからないけれど、私はこの流れで定期券を出す気になった。
「伯父さんに渡さなきゃって昨日、思い出して」
 受け取って、伯父はしばらく定期券の、読み取れる文字も残っていない表面を見つめていた。次の言葉が出てくるまで、ずいぶん長い時間がたった気がした。
「そうか。晴ちゃんが持っていてくれたんだね」
 それから、こちらを向いて微笑んだ。
「どう説明したらいいかな。……僕に婚約者がいたというのは、知っていたかい?」
 私は黙って頷いた。昨夜、母から聞いていた。よく遊んでもらっていたころ。それは、伯父が婚約者を病気で失ってからの一年余りのことだったのだ。一見、元気そうに見える。会えば陽気におしゃべりをする。親戚の子供にも楽しそうに相手をする。しかし、一人で暮らしていた部屋は、どこか暗く荒れた感じがして、両親をはじめ周囲の大人は随分心配していたのだという。
 伯父は一度奥の部屋に引っ込むと、数冊の古ぼけたスケッチブックを持って戻ってきた。
「彼女が遺したものだよ。見てごらん」
 差し出された一冊には、何ページにも渡って定期券が描かれていた。
「平らな紙に平らな定期券を描いて、奥行きを出すのが難しいらしい」
 そうかもしれないと思ったが、そこに描かれた絵にはどれも、空間の広がりと柔らかな雰囲気があった。時々それを持つ手が描かれていたり、皮の定期入れに入っていたりするけれど、ほとんどは背景もなく、ただ一枚の券があるだけだった。文字は、くっきりと書かれていたり、ぼやかしてあったりする。そのうちの一枚に、ふと目が留まった。持ち主の氏名が書いてあるのはその絵だけだった。
 モリモト ユキオ。伯父の名前。
「この絵の定期券、伯父さんのものなんですか? 私が預かっていた定期と同じ?」
「いや、そうじゃない……と言った方がいいだろうね。ここに描かれている定期券のモデルは、僕が彼女にあげたものだけれど、描かれてからは彼女の世界のものだ。晴ちゃんがくれた定期券は、彼女の世界からやって来たものだよ。僕が集めた切符と同じ」
「よくわかりません。彼女が何枚も定期を持ってたっていうこと?」
「僕があげた定期券は、ほら、そこに貼ってあるから」
 伯父が振り向いて指差した壁にある、小さな水色の定期券を、私は見続けることができなかった。薄く残る日付の下には伯父の名があるのだろうけど、近寄って確かめることができなかった。どこか怖かった。そして、なぜか悲しかった。畳の上の明るい日差しも、眺めのいい窓も、悲しかった。
「外に出て少し歩こうか。今時の子は足が痺れるだろう」
 穏やかに言われて、私は頷いた。確かに、そろそろ限界だった。

                    *

 住宅街は静かだった。日曜日だから、小学校のグラウンドにも誰もいない。さっきバスを降りた、「中待(なかまち)小学校前」バス停に来た。
「来るまではナカマチって、市町村の町という字だと思ってました」
「知り合いからの郵便でもよく間違ってるよ。この町に来たときは思ったものだ。『そうか、この町はオレの訪れをを待ってたんだ』」
 何を言うかおっさん。口には出さなかったけれど、ちょっとだけ思った。少し、気分がまぎれた。
「帰りのバスは一時間くらい来ないよ。駅のバスターミナルまで行ったほうがいい。ほとんど下り坂だし、いい散歩になる」
 そう言って伯父は、ずっと下のほうの時計塔を指さした。
 ほとんど下り坂。確かにそうだった。でも、ところどころで平らな道や、少し登って橋を渡らないといけない箇所もある。どこを歩いても見晴らしが良くて、散歩としては本当にいいコースだった。伯父が、そういう道を選んでいたのかもしれない。
「伯父さん、帰りは歩いて登るんですか?」
「このくらい、なんでもないよ。子供も年寄りもみんな歩いているからね」
 どうも、私は情けない若者らしい。そして、話はまた、あのスケッチブックに戻った。
 伯父が彼女と出会ったのは、勤めていた会社を辞めて、旅をして回っていたころだった。画家だった彼女もまた、あちこち旅をしては絵を描いていた。定期券を見せたのは偶然だった。ある秋の日、久しぶりに着たコートのポケットに、会社時代の定期入れが入っていたのだ。使い込んだ皮の定期入れはいいものだったけれど、定期券そのものは、伯父に苦い顔をさせた。
「昔の自分は何を考えていたのかって思うよ。毎日同じ道を通って通勤して、同じように仕事をして。旅に出ようかって思ってみても、空想にとどまってた。日常が崩れるのが怖かったのかな」
 そう、彼女に言ったのだった。彼女は定期券をしげしげと見ながら答えた。
「私は、決まった場所にお勤めってしたことがないから、よくわからない。でも、駅でいろんな人が通り抜けていく光景を、代わり映えがしないなんて思ったことはないわ。みんなが、他の人とは違う場所を目指して、自分だけの経験を積み重ねていって……。年をとって、家族ができて、それでもずっと通い続けている。なんだか、それを考えるとわくわくするの。だから、そんな顔をしないで。あなたは、私の知らない生活を知っているんじゃない」
 うん。身内にそういう話を語られると、少々恥ずかしいです。と、私は言わなかった。伯父の話しぶりは、楽しそう、とまでは行かないけれど、決して悲しいばかりではなかった。それが私には、不思議に思えた。
 彼女が亡くなる前、伯父は大量のスケッチブックを見せてもらった。そのときは、遺品になるとは思っていなかった。思いたくなかった。ただ、その内容のほとんどが、以前の彼女がよく描いた自然の風景ではなく、駅や電車内の人ごみを題材にしていることに気付いたとき、きっとこれから何かが変わるんだ、という予感がした。
 一緒に旅をしたこともあったけれど、お互い一人旅の方が多かったかもしれない。でも、これからは。そう言って二人の将来を語る伯父の言葉を、彼女は笑って聞いていた。
 そうね。でも、旅をしている間、私は本当に一人だったことなんてない。覚えていて。あなたがどこに行っても、私はいつも一緒にいるから。そして、私が描いた人たちは、いつだって、どこでだってあなたを待っているから。
 それが、彼女との最後の会話だった。
「それで、さっきの定期や切符の話になるんだけど」
「あ、そうか。最初はその話だったんですよね」
 想像すると怖い話になりそうで、忘れるようにしていたのだった。
「それ以来、旅に出るたび、駅で人に話しかけられるようになってね。みんなどこか懐かしい人なんだ。そして、後で彼女のスケッチブックを見ると、その人にそっくりな人が描かれているのに気づく。切符を交換したのはちょっとした思い付きだった。たいてい応じてくれる。通じないのは、彼女と関係のない、普通の親切な人なんだろうね」
「……怖く、ないんですか」
「不思議だけどね。怖くはない。彼女が霊界からどうこう、ということも思っていないよ。むしろ、僕が確かにここにいることを証明するために、彼らはいてくれるような気がする。うまくは言えないけどね」
「それは、その人が亡くなってからすぐですか? 伯父さん、しばらくは旅に出られなかったって……」
「そうだね。一年近くたってからだ。その間、晴ちゃんやお父さんお母さんにはお世話になったね。ある日、家にいるとき気づいたんだ。彼女のスケッチブックを、こんなに埃だらけにしておくわけにはいかないって。世の中には優しい人たちや元気な子供たちがいるのに、彼女の絵と一緒に閉じこもっているだけじゃいけないと思った。そのすぐ後、近所の駅で知らない人にあいさつをされたんだ。スケッチブックを整理したあとだったから、それが絵に描かれていた人だとすぐに気づいた。そうしたら、もっといろんな人に会いたくなった」
「じゃあ、私が定期券を預かったのもそのころですね」
 定期券をくれた人の顔までは覚えていないが、どことなく絵本に出てきそうな雰囲気の人だなと、当時思った覚えがある。
「彼女はもういないけれど、僕は一人じゃないっていうのはよくわかる。今まで他の人とも結婚しなかったのは偶然だけど。僕が格好良すぎるからかな」
「おっさん!」
 ここは突っ込んだ。そして二人で大笑いした。こんなに笑えるのは、実は泣きたいからなのかもしれない。
 駅の時計塔が近づいてきた。このあたりまで来ると、さすがに人通りが多い。
「そうそう。晴ちゃんにこれをあげるよ。お土産だ」
 いつの間に取り出したのか、伯父はポストカードを差し出してきた。彼女の絵がある、二十枚くらいの束だった。
「そんなにドラマチックな話じゃなくても、誰だって、待っていてくれる人や、見守ってくれる人がいるんだよ。晴ちゃんにもね。だから安心して、どこにだって行くといい」
「ありがとう。そうします」
 高速バスの券売機は屋外にあった。私は切符を買う列に並び、伯父は売店をのぞきに行った。その途中、一度立ち止まり、向かいから来た人に何か小さいものを渡しているのがちらりと見えた。相手は長い髪の女の人のようだったが、すぐに人ごみにまぎれてしまい、反応はよく見られなかった。切符を買って合流しても、そのことは聞かなかった。あまり立ち入ってはいけないような、聞いてしまってはもったいないような気がした。
バスに乗る直前、ふと思いついて伯父に話しかけた。
「さっきの、和室で喫茶店をやる話ですけど」
「うん?」
「座席は掘りごたつにしたらいいと思います。居酒屋とかでよくあるでしょ」
「そうか。最近の主流かい?」
「和室じゃ、私が長居できませんから。正座じゃなくても座れる形式がいいです」
「検討しておくよ」
 バスが発車するとき、少しだけ伯父に手を振った。それから、もらったポストカードをめくった。さっき伯父とすれちがった人が描かれているか確認するためだ。見たのはほんの一瞬だったけれど、雑踏の中でもくっきりと輪郭線を引いたように目立つ、きれいな女性だった。一通り眺めて納得してから、家族にはどのカードを分けようか考えた。そういえば、弟も今日帰ってくるのだった。最初は、「おかえり」と言うべきだろうか。それとも「ただいま」だろうか。
 意識したことはなかったけれど、自分が育った場所に帰るのは、やっぱり嬉しい。故郷の人も、私が帰るのを嬉しいと思ってくれているだろうか。とりとめなく考えながら、窓の外を見た。道の半分を過ぎて、バスは山をだんだんと下っていた。カーブを曲がるたび、町の明かりが大きくなる。



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