南島渡海譚 上

作・小川みさと


 何日何夜が過ぎ去って、
 小舟はゆらゆら木の葉のように
 波に揺られて揉み返されて
 だけどまだ船底の水は浅く
 上に左に下に右に、なんとか浮いているその中に
 横たわる男が一人。
 口はあき、目は動かず、
 それでもまだかろうじて生きていた
 死が覆いかぶさりながらも
 空を向くその視線の先に
 一直線に飛んで行ったのは、
 白い鳥だったのかもしれない。
 だが男のとろんと開けられた目が、
 その鳥を見たかどうかは、定かではない。
「おまえが持っていてくれ。御守くらいにはなるだろう」
 その声だけが思い出され、
 渡された浅黄色の手形のみがいま彼の手にあった。



 海は凪いでいた。
 まるで迷子のようにふらふらと、いたずらに潮に流された小舟が一艘浜に打ち上げられたのはきっと風の凪ぐ直前、潮が満ちたころ。
 朝、まだ誰もいない浜辺でそれを発見したのは、一人の島の男だった。
 褐色の肌に、力強い腕を持つその青年は、小舟の中に一人の男を見つけた。寝ているのではなくそれが衰弱しているのだということは、すぐにわかった。どのくらい漂流していたのかはわからないが、船の中には男以外何もない。櫂も無ければ、食料の跡も、水もない。
 青年はその両の腕で男を担ぎあげると、小走りで家まで運んだ。

 ぼんやりと、かすむ目に見えたのは秋の朱を交えた太陽でもなく、酷薄な月の明かりでもなく、褐色の肌の人かげ。
 男はそれがどういうことなのか、もはや考える余裕もなく、ただ ほぅ と一息ついて、すぐにまたまどろみの中へと連れ戻される。
 次に目を開ければ、暖かく柔らかいかすかな風が頬にあたり、まぶしい日の光がその目にやさしい刺激をくれた。どこか家の中だろうと思えども、海の匂いはすぐそこで、まだこれが船の中の夢かもしれないと、男はわからないままにまたまどろみへと沈んだ。
 三度目を開けた時、誰かが水を含んだ布を口元にあてていた。のどの渇きが知らぬ間に少し和らぐ。体はまだそれ以上の水を受け入れる余地はないようだが、口元に布を当ててくれている誰かはそのことを承知のようで、無理に水を飲ませようとはしなかった。男は、その人物を確かめようとしたのだが、その目はまだその姿を写す前に深い眠りへと落ちた。

 風鈴の音。
 縁側の優しい日の光。
 魚売りの呼び声に、
 近くの道場からは威勢の良い少年たちの声。
 ああ、もうすぐ夏が来ると。
 そう思って笑みがこぼれたのはいつの日か。
 気がつけば夏が去り、秋の気配がすぐそこに迫っていて、
 寂寥の思いにむせび
 そうして事は起こった。

 だがこの強く眩しい日差しは夏なのか。
 うっすらと目をあけて、男は光射す方へと顔を向けた。
 屋根にさえぎられて直接は当たらないが、日のあたる地面を見ればその熱が感じられる。
 まるで夏。何事もなかったかのように季節が戻ったのではなかろうか。
 男は身を起して確かめようとするが、不思議なことにその腕にも、腹にも、まったくと言っていいほど力が入らなかった。
「まだ起きてはいけない」
 声に頭だけ動かせば、そこには褐色の肌の青年。見たことも無い肌の色。しかし語る言葉は男が知るのと同じもの。男は驚きを隠さなかった。
「体が弱っている。これが飲めるか?」
 出された器には、薬草を煎じたのか、青臭い若草の匂いのする液体が入っていた。それが何という薬草かわかるほどに男は回復しておらず、ただ言われたままに男は少し口に含み、そのほのかな甘みを感じながら飲み下す。もう一口。悪くない。しかし、そこまでだった。三口目を入れようとする前に、胃が急に熱を発したかのように熱くなって、男は身をよじった。汗が噴き出す。内臓が、液体の通ったところだけが熱く煮えたぎるような苦痛に見舞われる。
 褐色の青年はその様子に驚くそぶりも見せず、ただ冷たく濡らした布を、苦しむ男の額に乗せた。
「これは臓物を活性化させる薬だ。もう大丈夫、少し休めばおさまる。腹も減るだろう」

 苦しみが引いたとき、すでに日は傾いていた。
 朱に染まる景色は明らかに男のいた場所とは違い、日もまた男のいたところとは違う。もっと強く、もっと長い。斜めに差し込む日の光がまぶしくて、なぜか悲しくて、男は目を瞑る。
 遠くでかすかに風の音が聞こえ、波の音がそれにかぶさる。どこかで耳慣れない鳥の鳴き声がし、バサバサと葉の擦れる音もまた強い。その中で朱に染まる夕日はひときわ雄大にその身を海に浮かべていた。水面は日の光で金色に染まり、それはまるでこの世のものとは思えない景色であった。
 男は風が吹いてはじめて自身が涙を流していることに気づいた。何が悲しいのかはわからない。それなのに涙が止まらない。安堵ではない。だが、苦しみでもない。
 いつしか男は、涙をぬぐったまま、安らかな眠りについた。

 木で床を作り、壁はほとんどない。屋根はまるで茅葺のように、植物で作られている。食べるものは魚や果物が多いが、その種類は男の知らないものばかり。
 男のいた所とは全く違う場所なのに、どこか懐かしさを感じる不思議な感覚。
 どこか遠くて近い場所。それが、この島だった。

「船を……行かなければならないのです」
 男がそう言葉を発することができるようになるまで、幾日もかからなかった。
 あの不思議な薬が効いたのか、それからは白湯を飲めるようになり、やがて果物を食べられるようになった。その島には男が食べていたようなものはほとんどなく、知らないものばかりが出される。それでも少しずつ、男は青年が差し出したものを好き嫌いせずに食べた。
 次第に体を起こすようになり、やがて、ゆっくりと、何かにつかまりながらではあるが立てるようになった。
「船はまだ早い。そんな体では沖までも漕いでいけないぞ」
「いいのです。もともと櫂はありません。ただ船に乗せて、押し出してくれればいいのです」
「それではなおさら無理だ。今日は海が凪いでいる。船を浮かべたところでどこにも行けはしない」
 男は寂しそうな顔を浮かべたきり、その時はもうそれ以上海へ出たいとは言わなかった。
 床からは出ていたものの、縁側に座るのがやっと。それだけでも見える風景はずいぶんと違っていた。
 海が広がり、見たことの無い、背の高い、鮮烈な緑色の葉をもつ植物が風に揺られる。肌に感じる日の光は突き刺さるように熱いが、風がその熱を運び去ってくれるかのように、カラッとしていて気持ちがいい。
 そこにいるだけで力がみなぎってくるような、そんな場所だった。
「……ありがとう、ございました」
 男は褐色の肌の青年に向かって、額を床につけてお礼を言った。青年はそのさまを、何も言わずにただ見つめるばかり。
「助けていただかなければ、私は死ぬところでした」
「死ぬ前に船が浜に着いた。発見したのが俺だった。すべてそうするようにと定められたことだ。礼を言う必要はない」
「それでも、あなたは命の恩人です。お名前を教えていただけませんか?」
「名前など聞いてどうなる。ここでは皆がお互いの顔を知っている。名前など必要ない。ここは、そういう島だ」
 そう言われて、男は青年の名を聞きそびれた。
 褐色の肌の青年は、黒く大きな瞳に笑みを浮かべた。

 海はいつまでも凪いでいた。砂浜には穏やかな波が寄せては返すが、沖に波は無いのだという。
 男の体が回復しても、船を出せるめどは立たない。
 おだやかな風が吹いても、船が出せるほどの波は立たない。島に生えている見慣れない植物の葉で男が手慰みに作った玩具の船は、浮かべるそばからすべて島に戻ってくる。
「今日も凪ぎですね。いつになったら私は船を出せるのでしょう?」
「今は島が閉じている」
 褐色の青年は言った。
「島が閉じる? それはどういうことですか?」
「そのままの意味だ。島が外との交流を拒んでいる。この時は誰も漁へ出られない。外から入ってくることも無い。季節が変わるまで続くこともあれば、三日で終わることもある。潮の流れが変わるときによくあることだ。珍しいことではない」
「漁に出られなければ困るでしょう?」
「島が人を殺すことはない。島が閉じているときは、島の周りに魚が集まってきている時だ。のんびりと釣りをすれば、食べるのに困らないほどには魚が獲れる。果物も野菜もたくさんある。何を困る?」
 何を困ると問われて、男は沈黙した。
「お客人、体もすっかりいいようだ。島が閉じているから船は出せないが、動ける者をタダで養うほどの余裕はない。これからは仕事を手伝ってもらう」
「もちろん、お手伝いさせてください。私も何か、助けていただいた恩返しがしたかった」
 その言葉に嘘はなく、男はそれ以降まるで青年に影のようにつき従いその仕事を手伝った。
 強すぎる日差しは男の白い肌を赤く焼き、虫は珍しい男の血を求めて群がった。初めの数日は、かゆみで眠れない夜が続くほどに皮膚が腫れあがり、さすがに青年もそれ以上男を外へ連れ出すことを辞めようとしたが、それでも男は手伝うことを辞めはしなかった。
 やがて男の肌は黒く焼け、虫に刺されることも少なくなった。
 水くみ、まき代わりの枯れ木拾い、釣り。男は習い、覚え、そしてどれもまじめにこなした。決してうまいとは言えない釣り、手際の悪い枯れ木拾い、だが二人が生活していくには十分なほどにはこなせた。
 青年は、村の住民に男を紹介することも忘れなかった。
 褐色の肌の島民たち。男も女も赤ん坊も老人も、すべて男にとっては初めて見る肌の色。聞きなれない言葉。布を巻きつけただけの簡素な衣。
 男が頭を下げて挨拶をしても、にこりともせずに聞くばかりの島民たち。言葉が伝わらないことはこれほどまでに疎外感を感じるものかと、男はその時になって初めて知った。
 だが次の瞬間、島民は男に果物を差し出した。
「ユンチェパルンガ、スクラ」
 困惑し、受け取ることをためらう男に、青年が「お客人に贈ると言っている」と通訳した。
 男はより深々と頭を下げて、それを受け取った。そうした時、初めてその島民はにこっと満面の笑みを浮かべたのだ。
 どこに行っても、同じ扱いを受けた。ある女性は旦那が釣ってきた魚を差し出し、ある少年は採ってきた花を差し出した。どれもみなありがたく受け取ったが、男には何も返すものがない。ただただ、頭を下げるばかり。それでも島民たちは、見返りなどもとより考えてはいないようで、受け取ったことに満足をしたように笑っていた。しまいには持ち切れなくなった食べ物を青年と二人で分けて持ち帰り、敷いた大きな葉の上にそれらを載せた青年が、男に向きなおった。
「まだ調子が悪いか?」
「いや……」
 そう答えて、男は涙をぬぐった。
 涙が止まらないことを、青年は振り返る前から知っていたのだろう。ここまで声をかけなかったのは、彼なりの優しさなのかもしれない。
「私は罪人です。ここの人たちは優しすぎる……」
 男は、ただ苦しかった。


「ブルング、トトガルムリノガタムポポタラ!」
 ある日、青年と同じような褐色の肌の少女が、男には理解のできない言葉で駆け込んできたのは、水くみから男が帰ったときのこと。駆け込んできた少女は甕に水を移している男の姿など映らなかったようで、必死に青年に言葉を続ける。
 青年はそれに返事をし、うなずいた。二三言声をかけて少女を落ち着かせ、そして何かを指示するようにさらに言葉を続けるうちに、少女はすくっと立ち上がってきた道を駆け戻っていった。
「手伝ってくれるか。大事な仕事だ」
 男はうなずいた。水くみや釣り、料理といった日常の仕事とは違う、何か大きなことが始まるのだと、言葉のわからない男にも感じられたのだ。どんなことであっても彼は恩を返すために手伝うつもりでいた。
「支度をしてくる。出られるように準備してくれ」
 そう言って青年が家の奥に引っ込んだ後、男は桶をしまい、家の周りをわずかに掃除し、干していた魚をすべて屋根の下に寄せる。そうしているうちに青年は戻ってきた。
それまでは腰布を巻く以外は裸だった青年が、今では白い布を上半身に巻いている。一枚の布を器用に巻きつけ、余った部分を長く膝のあたりまで垂らしており、手には木をまっすぐに削った杖を持っていた。杖の先には凝った装飾が施されている。それは青年の頭飾りにも見られ、白い羽根を刺した頭飾りをつけた青年は、それまでとは全く違った印象だった。
「行こう。時間がない」
 青年に促されるまま、男は荷物の入った籠を持ってその後に従った。その籠の中に数種類の草の干したもの、生の草、そして粉になったものなど様々なものが入っていた。しかし男には自分の生業故にそれが薬草のたぐいであることはすぐに分かった。見ただけでは何の薬草かわからないものもあったが、青年がこれから医事に関わるつもりでいることは察せられる。
 行く先がその家だということは、かなり遠くからでも唸るような叫び声が響いてきたことから、すぐにわかった。駆けつければ、家族が総出で一人の老人の周りに心配そうに詰めかけていた。その中心で老人が身をよじりながら苦しんでいる。青年の到着を知った家族はさっと老人の周りを開け、心配そうな顔で口々に何かを訴えていた。青年はそれをただ静かに聞いてうなずき、老人のそばに寄った。そして何事かを家族に告げる。家族は、少女を残して皆その家から出て行った。
 青年は身をよじる老人のそばに座り、その額、胸、腹、手、足をそれぞれ触ってゆく。そして杖を振りながら何事か歌のような、呪文のようなものを詠唱してから、ようやく持ってきた籠の荷をほどいて中身を取り出した。そしてそのうちの一つ、小さな芋状の木の根を先ほど急を知らせに来た少女に手渡す。
 男にはそれを見て目を見張った。それは男の良く知る植物だったのだ。スガリの根。
 しかし青年はそんな男の様子を気にせず、別の薬草をいくつか煎じて老人の口に流し込んだ。もがき苦しむ老人が上手く飲めるはずもなく、そのほとんどは口の端からこぼれおちる。だが、かすかに入ったものが効いてきたのか、次第に老人の動きが緩やかなものになっていった。
 そして老人の動きが止まった頃、少女は温かい湯を持ってきた。青年はそれを受け取りかすかににおいをかぐと、老人の頭を持ち上げてその湯を口に注ぎ入れた。男には止める間もなく、老人は湯を全て飲み干していた。
「なんてことを!」
 ようやく絞り出すように呟いた苦々しい男の声に、青年は静かに振り返り、まっすぐにその瞳を見つめた。男は青年の瞳をまっすぐに見返し、口を開こうとしたが、その前に青年が「静かに」と制したので、それ以上何も言えなかった。すべてはもう為されてしまったのだから。
 スガリの根を煮出した湯を、老人は飲んだのだ。男のいたユン国では毒とされるそれを。
 老人はやがて薄く眼をあけて、何事かをつぶやき始めた。
 青年はそれに返して静かに話しかける。二言三言言葉をやり取りしていくうちに、老人の口数は次第に減っていった。そしてやがて、沈黙。
 青年は老人の胸に手をあてたまま、静かに老人を見据えていた。男はそんな青年と老人の姿を少女と一緒に見つめるしかなかった。
 日は落ち、あたりに暗い闇が降りてきた頃、家の近くでは火を大きく焚いて何事かの準備をしている様子がうかがえた。だが、青年は動かない。
 ようやく青年が動いたのは、夜もとうに更け、月が西に欠けてからだった。あと数刻で朝が来ようかという頃になってようやく青年は少女に向きなおった。そうして告げられた一言に少女がわっと泣き出したのを見れば、何を伝えたのかは言葉など知らずともわかった。

 翌日、二人は老人の遺体を乗せて船を出した。
 島が閉じていると青年が言う通り、島の周りにはちゃぷちゃぷと穏やかな波が寄せて返していたが、沖に出ようとするとやはり凪が続いている。その中を櫂だけを手に黙々と沖へ進む。青年は男に海に出た理由を告げなかったが、男にも察しはついていた。
 弔いだ。
 島に十分な土地がないなら、埋める場所もない。だから水葬するのがしきたりなのだろう。
 どれほど漕いだかわからないが、島が遠くにぽつんと見える頃になって、青年は櫂を漕ぐ手を止めた。
「ここは、島の住民も知らない」
 男から見れば、そこが他の場所とどう違うかなどわからなかった。凪の中でただ、静かに揺れる海面を覗き込めば、透明できれいな海なのに底は深すぎて見えない。彼は老人の亡きがらに何事かつぶやくと、男と一緒に船の外へと押し出した。ざぶんと老人の体は沈み、あとはスッと引かれるように海底へと一直線に沈んでいく。
「島が開いている時に死んだ者は、船で流す。彼らはソワヌィ・カムチの守風となる。島が閉じている時に死んだ者は、この場所に沈める。彼らは海の底の底まで沈んでソワヌィ・カムチの母波となる」
 ソワヌィ・カムチ。
 聞いたことのない名に、男はどこか懐かしいものを感じた。
「ユン国では、死者は船で海に流すのか?」
 珍しく青年が聞いた。彼がユン国の言葉を話すということは、もちろん男が彼の国の出身だと知ってのことだろうが、その話題を出したのは、これが初めてだった。
「ユン国では、死者は土に返します。墓を作り、そこに埋めるのです」
「ではごく稀に、島に流れ着く船は死者ではないのか? お前のように、櫂もなく、食べ物も水もなく、死した体のみが船に乗って島に届くことがある。おまえが来るまでは、だから死んだ者がこの島と同じように流されているのだと思っていた」
 男は、複雑な思いで苦々しい笑みを浮かべた。
「ユン国には、伝説があるのです。南の果てに楚羅埜那珂真知が、あるのだそうです。それはこの世の絶対の真理であるとか、極楽浄土であると言われていますが、誰もそれがなんであるのか、確かなことはわからないのです。しかしそれにたどり着くことができるのは、功徳を積んだ人間だけだと言われています。だから僧侶や身分の高い人の中でも特に信仰の篤い人たちが、経だけを唱えて船に乗り込むのです。楚羅埜那珂真知を求めて。死して楚羅埜那珂真知にたどり着き、そこで仏となれるよう」
「ではお前も、身分が高い者なのか」
「いいえ、私は……そのような者ではありません。ただ、逃げてきたのです。全てを捨てて」
 男は、しんと真っ直ぐに青年の目を見た。
「私を殺して下さい」
 青年もまた真っ直ぐに男の目を見返した。
「何故だ?」
「私は罪人です。助けられる数多の命を見捨て、一人逃げ出したのです。医道に身を捧げる者としてあるまじき行為。あの時は逃げることしか考えませんでした。ですがここに来て、人の優しさに触れるたびに思ったのです。生きていてはいけないと。そんな資格は自分には無いのだと」
 まるで痛みをこらえるかのように苦しげに語る男に、返した青年の言葉はあまりにもあっけなかった。
「お前を殺すことはできない。それは私の為すべきことではない」
 だが男もまた、あきらめない。死を望む男の決意はそれほどまでに強いのだ。
「あなたは、この島でおそらく唯一、医道を知る者であり、死を司るものだ。あの老人をスガリの根で殺したように、私も殺して下さい」
 男にとってはたとえ死の迫った病人であっても、毒を盛るのは殺すことであった。ユン国で医道を学んだ男には、許せない行い。だがこの島では当たり前に行われている医事。しかも聞けば青年は奉行の役割も、処刑人の役割もまた担っているのだという。それが彼の術者という役目なのだと。だとしたら罪人である自分を殺すのもまた、彼の役割であるはずだ。
 だがそう言ってもなお青年は首を縦には振らなかった。
「彼には定めがあった。おまえにはまだ死の定めが無い。おまえは島が受け入れることを許した人間だ。殺すことはできない。セダキ……お前の言うスガリの根は彼の苦しみを和らげるためのものだ。殺すために飲ませたのではない」
「だがあれは毒だ。飲めば一時的に痛みは和らぐが、そのぶん神経が麻痺して死に至る。ユンでは猛毒です」
「毒と薬は紙一重だ。使い方によって、どちらともなる。死する魂を平穏に送り出すためならばやむをえまい」
「命を人の都合で短くするのは不遜です。苦しみもまた、生きる試練だとは思わないのですか」
「ではお前はまたその苦しみから逃げるためにスガリの根を使いたいと言うのか」
 そう言われて、男は言葉を失った。そう、それは図星だ。死は逃避であると、よくわかっているはずなのに。
「そこまで言うのなら、飲むといい。おまえの欲しているスガリの根だ」
 青年は袋の中から小さな欠片を取り出した。まぎれもなく、それはスガリの根だった。
 男は青年の手から震える手でその小さな欠片を受け取り、まっすぐな青年の視線を受けて意を決したようにそれを口に入れた。かすかに蜜柑のような香りが口の中に広がり、やがてそれはしびれとなって瞬く間に全身を駆け巡る。くうるり、くうるりと視界が回り、やがて自分が船の上で座っているのか、横たわっているのかもわからなくなり、どちらが海で空なのかすらわからなくなった。ただすべてが蒼い。
 男は青年にもたれかかるように倒れ込んだ。
 青年はそんな男を小舟に寝かせたまま、船を島へと向けた。スガリの根の毒が全身に回るまでは少し時間がかかるのだ。しばらくは、前後不覚のままであることを彼は知っていた。

 体が揺れているのか、船が揺れているのか、頭がくらくらとするだけなのか、男にはわからなかった。
 ただそのまぶしい日差しと、暖かさの中で、男は目の前が次第に真白になってゆくのを感じていた。

 風鈴の音。
 縁側の優しい日の光。
 魚売りの呼び声に、
 近くの道場からは威勢の良い少年たちの声。
 ああ、もうすぐ夏が来る。
 男は目を細めながら、縁側の外、まぶしい日差しを目を細めて見つめた。
 手元の医学書がかすかに墨の匂いを浮かべている。
「今日はえらく静かだな」
 突然ふすまが開いて入ってきたのは、彼の兄だった。
「兄者、宮を離れても良いのですか? 帝のお体は……」
「しっ。それは密事だ」
 帝の体調が良くないという噂は、市井にも広まっていた。だがユン国宮廷付きの医師である兄がそう言うのであれば、やはり事実なのだろう。
「今日であれば大丈夫です。急な患者もないので、トメさんには買い物を頼んであります。この屋敷には私しかおりません」
 それを聞いて男の兄は安心したように、男の向かいに座った。
「ならば好都合。実はな、あまり良くはないのだ。もともと病の多い方だが、今回は衰弱が激しすぎる。何やら良くない噂も流れていてな」
「まさか、何者かが毒を」
 帝位継承において、そのような噂が流れることはこの国ではしばしば見られることだった。皇族はけっしてそれを認めないが、そういった噂の方が早く町中に広まるものだ。
「確証はない。しかし帝の容体を拝見する限り、そう考える方が自然なのだ。スガリの根ではないかと思うのだが……」
「スガリは北の山と山の間の集落でしか採れません。そうそうたくさんあるものでも」
「緩やかな症状の悪化を見れば、スガリの根を一気に使うのではなく少量ずつ食事か何かに混ぜているのだと思う。それほど多くは必要ないだろう。しかしこれ以上何者かに入手させてはいけない。近いうちにスガリの根を全ての診療所で探すこととなろう。もし持っているなら、早いうちに処分した方が良い」
 持っているなら処分してやると言われて男は、麻酔用にごく少量に持っていたスガリの根の粉末を兄に渡した。もともとそれほど使うことのない薬で、他の物でも代用が可能だったのだ。
 兄はその粉末は確かに処分しておいてやると言い残し、屋敷を後にした。
 しかし男には強い不信感が残っていた。スガリの根を医師たちにもわからぬよう微量に処方し帝のお命を縮めるほどの技量は、並みの医師のものではない。まして医学を学んでいない者には出来ぬ芸当である。誰かが手を下しているとなれば、それは医師をおいて他にない。だが、宮廷に出入りできる医師は限られていた。

 二人の兄弟の屋敷は、都でも評判の医師であった彼らの父が先代の帝の病を治したことで下賜されたものだった。しかし人を使うことを嫌がった彼らの父はほとんど使用人を置くこともなく、唯一昔からなじみのあるトメという女性だけを妻の手伝いにとおいていた。だからトメは兄弟にとっても乳母のような存在であった。
 やがて父と母が他界した後、共に医道に身を捧げていた兄弟は、別々の道を進んだ。出来が良いと評判だった兄は宮廷付きの医師となり、そちらに移り住むこととなった。弟は兄に負けないほど医学薬学ともに優れていたが、父と同じく町の者を助けることを選んだ。本来であれば屋敷も兄に譲り、自分は市中に居を構えたいと考えていたのだが、自分は名誉を選んだのだからと屋敷を弟に譲った兄の優しさも汲んで男はその屋敷に残ったまま、よく薬や道具を包んで背負っては町民の住居を回った。貧しい者から治療代を取ることはなく、彼は宮廷や貴族よりも町民に愛されていた。
 夏が盛りになった頃、いよいよ帝は危くなった。もはや身を起こすこともできず、毎日うわ言のように何かを呟いているというのが市中でのもっぱらの噂。だが男の兄はあれ以来屋敷には訪ねてきておらず、男も人々から話を聞かれても答えようがなかった。
 だが、その噂の中に気になるものが混じっていた。
 帝暗殺が宮中のとある方を中心に企てられており、そのために市中にあるスガリの根がごっそりと没収されてしまったというのだ。「スガリの根狩り」は医師の間では噂になっていたが、それが町民たちの間でも噂されるようになったというのは驚かずにはいられなかった。しかもそれは使用されるのを恐れてという目的から、使用するためへとすり替えられている。それを聞いて以来、先日兄が持っていったスガリの根が本当に処分されたのか、一抹の不安を感じずにはいられないのもまた事実であった。
 そんな矢先のことだった。
「気晴らしに泰山に登ってきたのだ」
 そう言ってふらりと兄が男の屋敷に寄った。
「その時に、見知らぬ若者から渡された。どうやら、通行手形のようなものらしいが……」
 見せられたのは浅黄色の紙片であった。何か文字が書かれていたようだが、古いものらしく何が書かれているのかは、もはやわからなくなっていた。
「その若者は侍の風だったが、あれはここいらの者ではないな。全く別の異国から来たような、そんな違和感があった。それがなぜ私にこのようなものを託したのかは、わからぬ。慌ただしく走り去ってしまって、聞く間もなかった。だが、なんとなく捨てる気にもなれずに持ってきたのだ。おまえが持っていてくれ。どこへ行けるかはわからぬが、御守くらいにはなるだろう」
 だが男には、その不思議な紙片よりももっと気になることがあった。
「なぜ兄者は泰山などに行かれたのですか?」
 泰山はここから一刻ほどで行ける小さな山だ。春には花見に多くの者が訪れるが、今はそんな季節でもない。薬師は薬草を取りにたまに登り、男もまたその目的で山に入ることはあるが、それらが専門の薬師によって全て用意されている宮廷付きの医師が泰山に登る理由はわからない。そこにスガリが生えているという話も聞かない。だが、そう考えて疑ってしまう自分が男は嫌だった。
「ユンの国を、この都を見てきたのだ」
 意外と朗らかに兄はそう言った。
「昔、父とお前と三人でよく登ったろう。そこで、宮廷も町も全てを見渡せる場所があるのを覚えているか。あそこに行ってきたのだ」
 そこで兄が何を考えていたのか、男にはわからなかった。
「おまえは父の医道法度を覚えているか」
 突然兄はそう問うた。
「一、人を殺すべからず
二、己を殺すべからず
三、仁の道外るべからず
父上が最後まで伝えようとしたこのことを、どうして忘れられましょうか」
 医の道に兄弟そろって進むことを決めた時から死ぬまで、父はその三カ条を繰り返し二人に説いていた。それを破った者はもはや医師ではないと。確かにあの時、あの都が見渡せる泰山に登って、父はその言葉を繰り返していた。兄と弟は耳にたこができるほど聞かされた言葉に内心うんざりしながらも、父の熱い思いに胸を打たれたことを覚えている。
 都を見下ろしながら彼らの父は、この都とこの国の人々が幸せに生きることができるよう手助けをするのが医師の役目だと説いたのだ。故に二人は今の道を歩んだはずであった。
 兄は泰山でその事を思い出していたのだろう。
「私は宮中に長く身を置きすぎてそれを忘れていた。そしてもう、手の施しようのない所まで来てしまった。今更仁の道などと、どの口が言えようか。おまえは私のようにはならぬ。最後まで父の言った、その通りに生きよ。今後少しの間、そなたにも面倒をかけるやもしれぬ。その時には、誰に何を聞かれても知らぬと答えよ。はじめは騒がしくなるやもしれぬが、知らぬと知られれば次第にそれもおさまろう。迷惑を掛けるが、どうかお前だけは達者に生きよ。兄として、それだけは言っておく」
 そう言うなり、兄は他に言葉らしい言葉もかけずに屋敷を後にした。男は無論兄の不審な行動に疑惑の念を持ち問い詰めようとしたが、もはや兄に何を問うこともかなわなかった。夜の帳の下りた真っ暗な中に、兄はすでに身を隠してしまっていたのだから。
 やがて、帝が楚羅埜那珂真知へ渡海すると知らされた。生きたまま経だけを唱えて小舟に乗り、大海へ船出するのだ。南の果てにあるという楚羅埜那珂真知を目指し、仏となるのだ。そのために船出前に出家し、帝位を弟である佐の宮に譲るという。だがその佐の宮こそスガリ狩りをしていた張本人と言われていることを考えれば、どのようなからくりかは察しがつく。佐の宮が帝位を簒奪するために帝を渡海させてしまおうと企んでいるのだ。そして兄の不可解な言葉もまた、これを暗示していたのだということを、今になってようやく察する。が、しかしその時はすでに遅かった。
 町民にまでこの触れが知れ渡った頃には、すでに危篤状態の帝を何としても生きたうちに流すことが宮中での懸案事項となっており、流しの儀は急務であった。すでに儀はその日と迫った残暑の強い日、二人の男が屋敷を訪ねた。ともに黒い紋付袴と神妙な顔。男は嫌な予感がした。
「宮廷付き医師でありました御貴兄が楚羅埜那珂真知へ帝に同行されることとなりました。これは御貴兄自らの御意志です。医師として帝を無事に楚羅埜那珂真知へお連れするのが自分の使命であると申されてのこと。先にこれをと託された、遺髪です」
 突然そう告げられて、渡された懐紙に包まれた髷らしきものは、それだけでは兄のものかどうかわからなかった。
 しかし、男には兄が手のとどかないところに行こうとしていることは、兄自身の希望であれ強制されたのであれ、事実のような気がした。兄の様子を見ていれば、兄が何かの陰謀に加担していたことはまぎれもない事実であろう。罪の意識に耐えかねての志願なのか、口封じとして流されるのかは、わからない。しかし、兄はこうなることを予測していたはずである。だからあの時、父の思い出の残る泰山に登り、都の行く末を案じていたに違いない。兄は、医道法度を自ら破り、その自責の念にかられて……。そう考えると、男は居ても立ってもいられなくなった。
 使者の帰るのを見届けて、男は流しの儀が執り行われるという海岸へと急いだ。
 そこには多くの貴族や皇族が集まり、そこからかなりの距離をおいて町民たちもまた儀を見守っていた。皇族や貴族の中に、ちらりと総髪の男が見える。それが兄であることは、男にはすぐに分かった。声をかけて駆け寄りたい衝動にかられながらも、どうにかそれを押しとどめる。ここで騒いでは、元も子もない。助けなければ。帝を、兄を。楚羅埜那珂真知渡海は帝の御意志ではない。帝を亡き者とし、帝位を簒奪する企てだ。兄の同行もまた、口封じに違いない。
 男は儀の詳細をそこにいた見物人たちから聞きだすと、一目散に別の海岸へと走った。儀は近くの沖の島まで帝の乗った船を曳航し、そこで曳航の綱を切り、船がひとりでに沖へ沖へと出るのを見届けて帰るという。だとすれば助けるのは、その沖の島を過ぎてからだった。
 彼は急ぎ沖の島まで漁師に乗せてもらい、島民に事情を話した。帝に薬を届けに来たと。事実彼は家にあったありったけの解毒作用を持つ薬草を、持ってきていたのだ。スガリの根の毒が蓄積し、弱った帝の体にどれほど有効かはわからないが、しかし医師としてただ死を待つだけの帝を、たとえ楚羅埜那珂真知へ渡海すると知っていても助けずにはいられなかったのだ。それこそが、父から受け継いだ医の道であった。叶うことならば、沖の島を出た帝の船を別の船で寄せて帝自身を助け出したいとも考えていた。
 やがて帝の船と曳航の船が沖の島に寄った。流しの最終は明日の早朝に行われるのだという。だが無論男や島民たちのような平民が、帝やそのお付きの者に会おうとして叶うはずもない。それとなく帝に差し入れを頼んでみようとはしたものの、文字どおり門前払いであった。
 だから彼らが選んだのは、宵闇にまぎれて帝の船に海から近づき、こっそりと忍び込むというものだった。流しの儀の決まりから、その船には兄と帝以外誰も乗っていないことはわかっていた。故に船には驚くほど簡単に忍び込むことができた。沖の島の別の場所で流しの儀の成功を祈る宴が開かれ、皇族や貴族のほとんどの者がそちらに参加していたことも理由の一つであった。
 男を先頭に島民たち数名は帝が乗っているとは思えないほどの小さい簡素な船に忍び込み、船室の戸を叩いた。
「兄者、私です。助けに参りました!」
 しかし返事はない。人のいる気配すらない。
 もはや手遅れかと急いでその戸を、頑丈にくぎで固められたその戸を叩き壊して中に入ってみれば、そこには倒れ伏す無残な兄の姿と、大きな包みが一つだけ。男は真っ先に兄に近寄ってその体をかき抱いた。しかし兄の体はすでに冷たく硬くなり、投げ出された椀からはかすかに甘い独特の香り。
 スガリの根だった。
 兄は、おそらくこの船にこの包みと一緒に入れられた後、自らその盃をあおったのだろう。それがスガリの根であると知っていながら。仁の道を捨て宮廷の謀略に加担し、帝を殺し、そして自分を殺した。兄は、自ら医道法度の全てを破ったに違いない。
「おい、この包み、ひでぇ臭いがしやがるぞ」
 島民に言われて、男は泣く泣く兄の体を静かに横たえると、その包みを開いた。
 人の大きさのそれを開けば、とたんに広がる腐臭は、中の人物が以前より死していた何よりの証拠であった。着ている物や被っている物の布地や刺しゅうの豪華さからそれは帝であるとわかったが、男が見たその遺体はすでに死して十日は経っていた。
「なんてこった、帝はこの儀が行われるって決まった時には死んでたんだなぁ」
 のんきな声でそう言った島民の言葉は、声音とは裏腹にとんでもない事実を含んでいた。
 帝が死んだ場合は帝位継承にはその可能性のある者が話し合いの後に決定しなければならず、しかも一年は喪に服さなければならないのだ。楚羅埜那珂真知に渡海する場合は死とは認められず、帝位継承も生前に行われることから継承争いは起こらないはずであった。喪に服する義務もない。故に、これは佐の宮が帝位をいち早く簒奪するために仕組んだからくりの何よりの証拠であったのだ。
 事が明るみに出れば、佐の宮は一年間喪に服してから帝位を継承することになるだろうし、そもそもこのような策略を企てた者が帝になどなれるはずもない。まさに知らぬが仏という実情。
 もはや、為すすべはなかった。
 すべては遅すぎたのだ。
 今更佐の宮の罪を告発しても、兄も帝も死んでいる今となっては、濡れ衣を着せられるのが関の山だ。何もできはしない。なんと無力なことか。男は拳を固く握りしめた。
 彼らはこのことを黙っていようと遺体をもとのようにくるみ、そして釘で戸を打ちつけたが、その激しい臭いだけはいかんともしがたく、他の方法で臭いを消そうと試みたが、それは貴族皇族が宴より戻る前には間に合わぬことであった。
 その後に起こった阿鼻叫喚は、沖ノ島の住民の誰もが信じられぬものであった。今まで宴でもてなした相手が、突如振り返り刃を振りかざしたのだ。家々には火が放たれ、女子供はすぐさま殺された。まるで全てが計画されていたかのように、貴族や皇族が連れて来ていた武士たちは手際よくすべての船を破壊して、そのうえで逃げ場のない島民を次々と切り捨てた。その混乱のなか、男と船を開けた島民たちは最後まで逃げ惑った。誰も男を責めたりはしなかった。ただ必死に逃げ、唯一破壊を免れたあばら家に置かれていた手漕ぎの小舟を海に浮かべ、その中に男を押し込んだ。
「逃げろ。おまえは顔を見られていないし、ここにいたことが知られていない。本土まで逃げられれば大丈夫だ」
 そう言って、島民は船を押し出した。その島民にも乗るようにと言った男の目の前で、島民はずるりと倒れ込んだ。背には矢が深々と刺さっていた。焼き打ちの炎を背にしていたために矢を射た武士の顔は見えなかったが、男は炎に照らされて、武士に顔を見られたであろう。矢をつがえる動作が見えて、男はとっさに船の中に身を隠した。船は波に乗って沖へ沖へと流されるが、顔を見られた以上もはや本土に引き返すこともできなかった。
 そして、宵闇にまぎれて小舟は一層沖へと流された。その船に櫓も櫂も無いと気付いたのは、島がずいぶん遠くで赤々と見える頃になってから。男にはなす術もなかった。
 自分がいかなければ、あの島の人々が殺されることはなかった。
 自分がいなければ……。
 まどろみの中で、誰かの声が重なって聞こえていた。
「おまえのせいではない」
 その声は、兄のようだった。
「私のせいです。私がもっと気をつけていれば」
「おまえに何ができたというのだ。すべては定めだ」
「定めなどではありません。私が浅はかな考えで愚かなことをしなければ、あの島の人たちが死ぬことはなかった」
「初めから殺すつもりだったのかもしれぬ。彼らは時にそういったことをする。それにお前は、医道法度を破ってはいない。それどころか父上の志を強く継いでいる。自分を恥じるな」
「あれだけの人が死んだのに、私には何事もなかったかのように生きることはできません」
「かといって、お前が死ぬことなどだれも望んではいない。兄も、島民も、お前だけは生かそうとした。彼らの想いを裏切って命を粗末にしているのは、お前の方だ」
 ようやく合った焦点の先で、そう言ったのは褐色の肌の青年だった。
「ポポタラグルカナイシユンチェパァタカ?」
 少女の声に視線を向ければ、そこには昨夜祖父を亡くした少女が花を持って立っていた。彼女の心配そうな表情に、男は胸が痛んだ。
「ユンチェセダキヌィクンウルパ」
 青年は優しく声をかけていた。少女はそれに納得したかのように、だが驚いているように頷いて、手に持った花を男に差し出した。男は自分の手がどこにあるのかもわからず、目だけで礼を言う。少女にその意思が通じたのだろう。彼女ははにかんだ笑みを浮かべて暑い日差しの中を帰って行った。
「ちょうど弔いの宴の準備ができたからと呼びにきたのだ。おまえの様子を見て、死の気に中てられたんじゃないかと心配していた」
「申し訳ない事をした。宴に行ってください。私のことは気にせず」
「スガリの根の酩酊は激しいのだ。明日までは起き上がることすらできないだろう。安心しろ、私はここにいる」
 弔いの宴ならば、もちろん死を司る彼は必要だろう。それを自分の浅はかな行為で邪魔をしてしまった。程度の差こそあれ、自分の行いはいつもこうして人に迷惑をかける。それが男にはたまらなく嫌だった。
「すみません」
「飲ませたのは、私だ。ユン国で言うスガリの根が、強い毒をもつことは知っていた。だがこの島のセダキは同じ植物だが毒は少ない。酒よりも強い酩酊状態を引き起こし、四肢は一時的に麻痺させる。それゆえに痛み止めとしても使われる、その程度のものだ。だから飲ませた」
 だとしたら自分は、ずいぶんひどいことを言ってしまった。老人を殺したと、彼にそう言ったのだ。
「すみません」
「謝るな。言わなかったのは私だ。何でもかんでも自分を責めるのはよせ」
「でもこの島は、私には優しすぎるのです。人も、空も、海も、スガリですら人を殺さない。なぜ私がこんなにも幸せな島で生きているのでしょう。あれほど多くの人を死なせてしまった私なのに」
 男の目に涙があふれた。
「それが定めだ。罪があるとしたら、償う時間を与えられたのだ。おまえはこの島で生きている。ならばこの島で生き直してみろ。同じ過ちを繰り返さなければいい。人はそうして学んでいくものだろう」
「その機会が、私に与えられていいのでしょうか」
「機会が与えられたからこそ、島はお前を受け入れた。おまえは島に愛されている。ソワヌィ・カムチの命となれ」
 男は、震える手で涙をぬぐった。ここでもう一度生き直してみる決意をして。
 懐にある浅黄色の紙片を取り出してもやはりそこに書かれた文字は見えなかった。だが、何となく御守と言われたその紙片があったからこそここにいるのだと、そういう気がしてならなかった。だから彼はその紙片だけは肌身離さず、大事に持っていることにした。


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