南島渡海譚 下

作・小川みさと


 翌日から、男はそれまでどれほど暑くても脱ごうとしなかったユン国風の着物を脱ぎ捨て、島の男たちと同じように腰布一枚で生活するようになった。はじめは色白で貧弱だった胴体も次第に太陽に焼かれて、やがて日焼けしていた腕や顔と同じ色になった。あの御守だけは草を編んだ紐で、腰布からぶら下げている。
 それまで以上に彼は島に溶け込もうとし、島中を歩き回った。たくさんの植物を見て、薬草がどこに生えているのか、どの植物の実が食べられるのか、島の地形はどうなっていて、どこが一番釣りに適しているのか。多くのことを男は身につけようと努力した。
 やがて北の空からたくさんの渡り鳥が来るころには、男は一人でも島の人たちとなんとか会話ができるほどまでに言葉も覚えていた。
 言葉を教えた師は、祖父を亡くした少女をはじめとする子供たちだった。彼らは次々に魚や果物を持ってきてはその名を教えてくれた。代わりに男は、彼らに薬草について教えた。おなかが痛い時に飲む草、頭が痛い時に飲む草。やがてけがをした島民は彼のもとに来るようになり、彼もまた乞われればどこへでも行くようになった。効能の違う薬はすべて青年に聞いて覚えていた。いつしか男は島に不可欠な存在となっていった。
 おそらくユン国でいうところの冬が来るころ、白い鳥がちらほらと、北の空から飛んでくるようになった。大きさはさほどでもないが、島にいる色彩豊かな鳥と違って純白で、おとなしい。しかしそれは弱いという意味ではなく、ただ毅然とそこにいる鳥。それが印象的な鳥だった。
 白い渡り鳥の数が増えてくるに従って、大きな宴の準備が始まった。
 ある日男は島にあふれんばかりに増えたその白い鳥の羽根が、青年が稀につける白い正装の冠についている羽根と同じものだと気付き、少女にその名を問うた。
「ポポタラ!」
 少女は鳥を指差してそう答える。だが次の瞬間、青年の姿を確認するとやはり「ポポタラ!」と呼びかけたのだ。青年は二人のもとへやってきた。
「宴がそろそろ始まる」
 少女は飛び跳ねるように先に宴が行われる広場へと走って行った。男と青年は歩きながらその場所へ向かう。
「ポポタラというのは、あなたの名前ですか? 彼女にあの白い鳥の名を聞いたらポポタラと答えたのに、彼女はあなたを見てもポポタラと言った」
 青年はおかしそうに笑いながら頷いた。
「そうだな。この島の言葉には、一つの言葉でたくさんの意味をもつものもある。ポポタラには、白い鳥と、術者と、神の使いという意味がある。すべては一つなのだ。あの白い鳥は神の使いとされていて、俺のような術者は島では神の使いと通じる唯一の人間だ。島の人間が死ぬとき、島が開いていれば風になり、島が閉じていれば波になると言ったことがあったろう。術者だけは別だ。術者が死んだら、白い鳥になる。だからあの鳥たちはこの島を守ってきた術者の先祖たちなのだ。だから島民は鳥を大事にする。宴は、先祖を迎えるためのものだ」
 すべての島民が、男も女も、老人も子供も、大きな輪になって魚を食べ、酒を飲み、果物をほおばった。輪の中心では踊りが披露され、男たちは太鼓でリズムをとる。夜になれば火が焚かれ、宴は三日三晩続いた。男もその輪に加わり、今までに感じたことがないほど楽しい時を過ごしていた。静かなことが是とされたユン国では、感じたことのない躍動感と熱気に男は酔いしれた。
 その間鳥は、つかず離れず人間の輪を見つめているように見えた。警戒心が強いのかそれほど近寄ってはこないが、視界の端に必ずいる。それがポポタラという白い鳥であった。
 青年に聞けば、島に年中居ついているポポタラもいるのだそうだ。夏の間は少しでも涼しい山の上に移動し、冬になって多くの仲間が来ると、山から下りて仲間と混じってどれが島のポポタラかわからなくなるという。夏の間は薬草を取りに行く術者しかポポタラに会えないから、やはり島の人にとっては冬こそがポポタラの季節なのだという。
「ほら、ポポタラが見守ってるよ」
 それが宴の前後からの、彼らの口癖となっていた。何をするにも近くに鳥の姿を見ないことがない。それが祖先だというならば、彼らが感じているのは安心そのもののようだった。

 冬とはいっても、この島の冬はユン国の秋よりもなお暖かい。
 釣れる魚の種類は変わり、採れる果物の数は減ったが、寒さ厳しいユン国にいた男にとっては、それほどのものでもなく、まさに住みやすい、過ごしやすい島だった。男にはまだ慣れない気温の変化だったが、だがそれは優しく男を包んでいた。
 青年の仕事の手伝いは相変わらず続けていた。青年は死を看取るだけでなく、お産に立ち会って子供を取り上げ、通過儀礼の際にも必ず立ち会って通過儀礼を終えた少年たちを大人として認める儀式を行った。人の生死と成長におけるすべての節目に彼は立ち会い、術者としての役目を全うしていた。それだけでなく、島民の生活を見ていると青年が島全体を束ねる役目も果たしている。もめごとは仲裁し、罪を犯した者を罰するのも彼の仕事だった。
「重責にはならないのですか?」
 いつか男はそう聞いた。しかし青年は不思議そうな顔で逆に聞いたのだ。
「何がだ?」
「あなたの肩に、島民の生活が全てかかっているのでしょう?」
「いや、違う。皆それぞれに生きている。困った時だけ俺が行けばいい。先代がずっとやってきたことだ。重責など感じたことはない」
 確かに、この島はそうやって皆生活していると、言われて初めて気が付いた。
「ソワヌィ・カムチという言葉も、たくさんの意味を持つ。生活、この近海を含めた島の名前、楽園。生きている者はソワヌィ・カムチで暮らし、死んだ者はソワヌィ・カムチに還る。術者はそのソワヌィ・カムチに定められ、ソワヌィ・カムチのために生きる。力の無い者をソワヌィ・カムチは選ばないし、選ばれた者はその体も命も一人のものではなくなる。だが生活は変わらない。俺も変わらない。ただあるままに生きるだけだ」
 男には、その生き方がわかるような気がした。自分で質問したことながら、彼自身もまた医事を為すとき、誰かの期待や大きな責務を重荷に感じていたわけではないのだ。人を助け、人に感謝される仕事ゆえに彼は生きがいを感じており、それは今でも変わらない。おそらく、同じなのだろう。彼がこの島に溶け込めたのも、そういった生き方をしていたからなのかもしれない。
 だが今となっては、それも過去のことだった。自分の浅はかな行動故に、多くの人が犠牲となった。それは確かに誰かを助けようとした行動だったかもしれないが、代わりに失ったものはあまりにも大きい。島で住民を稀に体調不良から助けて感謝されるのは嬉しかったが、いつも男の脳裏にはあの島の虐殺がよぎる。そのたびに男は、感謝されるのが辛くなるのだった。できるなら、青年にすべての医事を代わってもらいたい。いや、自分が行うことは嫌ではないのだ。ただ、感謝されるのが辛い。自分は誰からも感謝されずにひっそりと生きていたいと思うのに、この島の人はそんなこと考えもしないようだった。出来る者が出来る事をして社会を営んでいくのが、この島の唯一の決まりのようなものだったのだから。
 しかし、出来る者が亡くなると、それはだれかが代わりにやらなければならなくなる。船造りの上手い者は教えを乞う者にその技を教え、料理の上手い者は子供にそれを伝える。
「術者は島に選ばれるなら、どうやってそれがわかるんですか?」
 いつだったか男は青年に訪ねた。青年は首を振る。
「ポポタラの交代が必要になったら、それとなくわかるようになる。わかったらその時から前のポポタラから後のポポタラへ、薬草の知識や技術を継承していく。今はまだ徴がない」
「あなたはどうやってポポタラに選ばれたんですか?」
「まだ大人の儀を迎える前の頃、空を見ていて船が来ることを知った。なんとなく、風から違うにおいがしたのだ。そうしたら本当に船がきた。それでみんなが、お前が次のポポタラだと言い始めた。その後、大きな波が来て島の半分が流されたことがあった。俺もその流された方に住んでいたが、たまたま泳いで島に戻れたから助かった。流されて生き残ったのは、俺だけだった。それで本当にポポタラだと言われた」
 おそらく、奇跡的な何かがあればその子が次のポポタラとなるのだろう。
「俺はお前が次のポポタラかもしれないと思っている」
 その青年の言葉に男は言葉を失い、目を見開いて彼を見る。だが青年は真剣なまなざしの中に、フッと笑みを混ぜた。
「驚くな。おまえは生きて島にたどり着いた。おまえを見つけた時、生きるか死ぬかわからなかった。たぶん死ぬと思ってた。だが、生きた。島の住民もお前を受け入れた。おまえは島に祝福されている。今はまだ徴は無い。おまえの心も弱い。だが心が強くなって、徴が現れたら、俺はお前に全てを授ける」
「でも、私はあなたより年上です」
「この島には、年を数える習慣はない。出来る者がやる。選ばれた者がやる。それだけだ。選ばれたら、悩め。今はまだ俺の戯言だ」
 そう言って笑う青年に、男は笑うことはできなかった。

 島の時間はゆるやかに流れてゆく。
 朝起きて、水をくみ、島を回って住民の様子を見て、魚を釣り、果物を採り、住民に頼まれて青年と子供の健康を祈る儀を行い、薬草を取りに島唯一の山へ入り、下りてきたら子供たちと遊び、青年と食事をし、暗くなったら眠る。ほとんどがその繰り返しで、そのすべてをどこかでポポタラはじっと見つめていた。

 その日もまた魚を釣りに行ったが、どういうわけか珍しく魚は全く釣れなかった。
 それまでずっとあちこちから飛来して、もはやあふれんばかりだったポポタラも、今日に限って全く見かけなかった。
 島の男がポポタラの死骸を持って青年を訪ねてきたのは昼下がり。ポポタラに害を与えることはこの島でも最も悪い行いとされており、やった者は罰せられるため、ポポタラの死骸が上がるとそれが誰か故意によるものか、老衰によるものか術者であるポポタラが調べるのが習わしとされていた。
 青年はまだ新しいその死骸を受け取ると、大きな分厚い葉の上に置き、丹念に調べ始めた。島の男はいったん自宅に戻って行った。
「刃を持ってきてくれ」
 青年に言われて医療用の小刀を手渡すと、青年は慣れた手つきでポポタラの胸から腹にかけて真っ直ぐに切り裂いた。そうして内臓までをも取り出して、一つ一つ確認する。それはまるで鳥の調理のようだったが、やがてそれらの確認が全て終われば、内臓をすべて戻してその腹を糸で縫い合わせた。
「病だな」
 そう青年は血まみれの手のまま言った。
「このポポタラはまだ若い。外傷も無いし、内臓も破れてはいない。だが、色が変わっている。毒を飲んだのなら、もっと別の反応が出る。これはおそらく流行病だ。他のポポタラがいないのも、この病を恐れてのことだろう」
「大丈夫なんですか、彼やあなたはそのポポタラに直に触ってしまった」
「わからない。人にうつるものでなければ問題はないだろう」
 ポポタラの死が渡りの途中でもらった病であることは、正式に青年から島の住民へ伝えられ、伝統に従って死んだポポタラの魂を送る儀が執り行われることとなった。その準備には島の住民全員が参加し、もちろん男もそれを手伝った。ポポタラが死んでいた海岸に小さな櫓が組まれ、その上に死したポポタラが安置される。
 そして翌日、そのポポタラの魂を送る言葉とともにやぐらには火がかけられ、その魂が煙となって空へあがっていくのを島民たちは見守ったのだった。鳥は焼いて空へと返すのが、習わしなのだという。
 そして大きな炎に包まれる中で、宴が開かれた。大きな葉の上には蒸した魚や果物が大量に置かれ、火が消えるまでその宴が繰り広げられる。深夜になり火が消えて全てが終わってから、ようやく青年はその後始末を行い、男もそれを手伝ってから家へと戻った。
 青年の様子がおかしいと思ったのはその時だったが、彼は自分から異変を告げることはなかった。
 だが翌日、青年は床に臥した。あの時ポポタラを触った時に男が心配したことは、杞憂では済まなかったのだ。
 いつも自信とと強さに満ちている青年の顔に、今は死の影さえ覆っているようだった。苦しみで歪む表情の下で、時折小さなうめき声を発している。青年は高熱の中で脈が極めて少なく、嘔吐と痙攣を繰り返していた。
 ポポタラを持ってきた男の家に行ってみたら、こちらは一家全員が倒れていた。症状は同じ。見れば、近隣の家々も同じ症状で寝込む者ばかり。あの宴で皆が同じものを食べていた。それが感染した原因だ。
 不安に思って島を回ってみれば、半数以上の者が病に倒れていた。皆症状は同じ。高熱と、脈拍数の低下、そして痙攣と下痢。
 聞こえるのは、倒れた者たちのうめき声だけ。風は無く、波も静まり返った湖のように動かない。ポポタラもいない。島は完全に沈黙していた。その静けさはまるで死の予兆。男にはそれがひしひしと肌で感じられた。人が死ぬ前のあの一種独特の神々しささえ感じるあの静けさに、それはよく似ていた。
 だがそこで諦めていては、医道は貫けぬ。
 男は青年の看病を続けながらありったけの薬草を並べた。
 夜も遅くになって、術者を求めてやってきたのは祖父を亡くしたあの少女だった。
「ポポタラ、島が死ぬ!」
 しかし床に臥した青年を見て、少女は絶望の色を浮かべた。男はそんな少女に、彼らの言葉で聞いた。
「島で元気な人間を、みんな呼んできて」
「動けるの、私だけ。みんな倒れた」
 男は驚いた。それほど感染力が強いとは思っていなかったのだ。なぜ男とこの少女が感染しなかったのか、あるいはまだ発症していないだけなのか、それはわからない。わかっているのは、今この場で何かできるのは、この二人しかいないということだ。
 男はそれまでの間にもできる限りのことはしていた。持っている薬の中で効きそうなものは青年に飲ませていたし、考えられるだけの病を想定していた。しかし、どれもあてはまるものはない。男のいたユン国とは環境が違いすぎるので、おそらく知らない病もあるだろう。だが、それを聞けるほど青年の状態は思わしくない。スガリの根をもってしても、青年の苦しみは治まることがなかった。
 だが、まだ一か八かの賭けはあった。
「私はこれから薬を取りに行く。その間、島の人を頼む」
男はそう言って、深夜に山に入ろうとした。そこにしか薬は無い。男が考えていたのは、高い熱を発して病を殺してしまう薬を使うことだった。熱で病を殺すゆえ、伝染病には効くとされている。だが一方で、非常に危険な薬でもある。その薬に使われる草は、この島では気温の低い山の頂上付近でしか生えていないうえに、その形状はユン国のものとかなり違っていて、スガリの根同様同じ効果は期待できない。だが、無いよりはましだった。
「私も行く。ここにいても、今は出来ることがない。道中お前が倒れたら、私が薬を取ってくる」
 少女は、強い意志をたたえた瞳でそう言った。断ることなど、できようはずもなかった。それに、住民が苦しみもだえる中に一人置いていくこともまた、あまりに酷だ。感染の危険もある。
「明かりを。それと、夜露で足が滑るといけない。布を巻いて」
 男はそう言ってかつて自分が着ていた羽織の袖を切って布状にし、少女に渡した。少女は不思議そうな顔をしながらも、男が自分の足に巻くのを見よう見まねで巻いた。寒さに備えて、少女には袖を切った羽織を着せる。
 深夜の山は、恐ろしくひんやりとしていた。この島では感じたことのない寒さに、少女は顔がこわばっている。しかし下りることなど考えていないようで、ぴったりと男の後をついてきた。男も後ろの少女を気にかけながら、山を登っていく。物音一つしない山は、まるで死んでいるかのようだった。後ろから少女の小さな息遣いだけが聞こえてくる。
 一瞬、世界にもう二人しか残っていないような気がした。島の者が死に絶えて、二人もいつ同じ病に倒れるか知れない。そんな恐怖が不意に頭をよぎり、男は頭をふってその考えを追いやった。そうなる前に自分が助けなければいけないのだ。
 山頂に着く頃には、東の海の先に朝日の光が差し込み始めていた。男は急いで薬草を探し、見つけたそれを見せて少女にも探してもらう。二人で手分けして、ようやく島の住民に足るほどの量を摘んだころにはすっかり朝日が顔を出していた。
 下山してから男はその草を煮詰めて薬を作った。少女は家々を回って様子を見たが、すでに何名か事切れている者がいた。だが、その数はまだ多くは無い。薬の完成が早ければ、助かる者の方が多い。そう男に報告すると、男はうなずいて少女に煮詰めた緑の液体を見せた。
「これは、強い薬で、強い毒だ。体が一気に熱くなって、病を殺す。だけど、その人も殺す。私が薬を柄杓に一杯飲む。もしこれで、日が高くなる前に私が死んだら、飲ませてはいけない。日が高くなっても私が生きていて、でも熱が高かったら、この半分だけを飲ませる。私が生きていて、熱も下がっていたら、同じ量を飲ませる。わかるかい?」
「わかった。日が上がった時、死んでたら飲ませない。熱が高かったら、半分。熱がなかったら、同じ量。熱の高さによって調整する。子供はもっと少なく、老人も少なく、ね」
「そうだ」
 少女は今まで彼が教えた薬草の知識をよく覚えていたようだ。安心して、男は柄杓一杯の薬を飲んだ。頭の芯にまで響くような苦みがのどを通り、そして内臓から急速に熱が出た。やがて全身が燃えるような熱を帯び、男は立っていられなくなった。
 死ぬかもしれない。
 それは考えていたことだ。薬の効能がわからないまま自分で飲むのは、自殺行為だった。しかもこの薬草は、毒としても使われるものだ。即効性があり、量を間違うと非常に危険だった。だがその量がわからない。試すことができるのは、自分しかいなかった。
 青年の苦しむ姿を見て、男は思ったのだ。助けなければいけないと。それは理屈では無い。ただ目の前で苦しんでいる人を、放っておけなかっただけだ。島中を見て、その思いだけが男を突き動かした。まるであの時、帝の船を追って沖の島へ渡った時みたいに。
 自分が助けなければいけない。二度と見捨てることなどできない。そのためには、自分が犠牲となる事も厭わなかった。聡明な少女は、おそらくしっかりと分量を見定めてくれるだろう。不思議なことに、男には失敗するという恐怖はなかった。出来ることを出来る者がする。それがこの島のしきたりならば自分はそれをするまでだ。

 静謐の中に男はいた。
 閉じていても強い光が目を焼く感覚に、何か懐かしいものを感じながら男は薄く眼を開く。
 そう、それはまるでこの島に流れ着いたばかりの頃、ここがどこかもわからずにただ眼を開けたあの時の感覚に、よく似ている。
 目が次第に開けば、目の前に心配するような顔。それは青年だった。顔色は良く、死の影はどこにも見られない。安心した。少女も覗き込んでいる。
 彼らは口々に何かを話す。話しているように口を開いているのに、いっこうにその声は男に届かなかった。
 目がしっかりと開き、二人の姿だけでなく、数名の島の住民が心配そうにのぞきこんでいるのがわかるのに、何の音も声も聞こえなかった。男はそれを伝えるために声を発しようとして、やはりそれさえも自身に聞こえないのを知った。青年もまたその様子に、異変に気付いたようだった。
 聴覚が失われた。
 それを男や青年、少女、そして島民たちが知るまでにそう長い時間は必要なかった。
 あれほど騒がしかったはずの潮騒も、鳥の鳴き声も、人々の生活の音も、男からは失われていた。ただただ、静寂。
 おそらく熱のせいだろうと、男は自分自身でわかっていた。あの薬は体温を高く上げる。そのせいで、視力や聴覚が失われる話もいくつか聞いていたのだ。自分以外に同じ症状の者がいないかと聞けば、みな無事だと青年が身振りで教えた。病で亡くなった者が八名いたが、あとは全員回復して元気だという。少女は高熱を出した男の様子をつぶさに観察し、それを踏まえて、投与する相手の体の大きさを見ながらこまめに薬のさじ加減を変えたのだという。そのおかげで誰もが正しい分量で薬を飲み、助かったと。だが男だけがはじめに飲んだ薬の分量が多く、三日三晩熱が下がらずに生死の境をさまよっていたようだ。
 男には、ユン国の言葉であれば唇の動きで何を言っているか読むことができた。それは長年の診療で、声すら発することのできない重篤な患者を診ていく上で自然と身に付いたものだったが、そのおかげで青年の言うことだけはその唇の動きで理解できる。他の島民とは、以前と同じく青年に通訳してもらわなければわからなかったが、それでも表情や身振りでだいたいのことは理解しあえる。
 島の人々は、誰もが男に感謝していた。少女は大人たちに説明して回ったのだという。ポポタラさえも倒れた島で、彼だけが薬草を取りに夜の山に入り、その薬の効き目を確かめるために自らで試し、そして聴覚を失ってまでみんなを助けたのだということを。
 だが男はそうではないと首を振った。少女がいなければ、薬を量ることもできなかった。島の住民でいながら唯一病にかからなかった彼女がいたからこそ、この島は助かったのだと。
 彼女こそが、次のポポタラだ。
 誰もがそう感じ始めていた。
 男は一人、静かな世界の中で、舞い戻ってきた真っ白なポポタラ達の群れをただ嬉しそうに眺めていた。熱くまぶしい日の光と、きれいで穏やかな海、温かくすべてを運び去る守風と、優しく島を包み込む母波、島を見守るポポタラ達。
 男は、目を細めた。涙が一筋こらえきれずに流れ落ちた。

 少女はそれ以来、男にぴったりとくっついて離れなくなった。薬草を取りに行く時は一緒に行き、病気の者が出ると青年と男と少女、三人で治療に行った。少女は見る見るうちに薬草を覚え、処方の仕方を覚えた。
 しかし、耳の聞こえない男と、文字をもたない少女。
 伝え合うことは難しく、だから自然と二人は二人だけの手言葉を生み出していった。手印のようなものもあれば、手のひらを示してそこに描くように伝えるものも、二人はあっという間に作り上げてしまった。
 それからは、本当に驚くほどの聡明さと熱心さで、あっという間に少女は島に生えている薬草で男の知るものをすべて会得してしまった。処方の仕方は勿論、効能、副作用、そしてときにはそれらを組み合わせ新しい薬を作り出しもした。
 医学薬学を学んだ男には、彼女が驚くほどその道に向いていることが分かった。彼女がポポタラになれば島は安泰だし、ポポタラとならずとも、彼女は必ず良い治療者にはなる。男はそう確信していた。


 涼しい夜風の吹く晩だった。
 男は家から少し出た浜辺に座っていた。
 寄せては返す波が静かな潮騒を奏でているのを、男は目で聴いていた。煌々と照る月はその眩しさゆえに星星さえも消している。大きな大きな月が波の上に一筋の道を作っていた。白銀のその道は、たゆたう波に揺れながらも、ずっと先、水平線の向こうまで続いている。
 その白銀の道の上を、ポポタラが遊ぶように浮かんでは飛び、飛んでは浮かんで魚を食べていた。
この先へ行けば、楚羅埜那珂真知へ辿り着くのかもしれない。
ふと、男はそう思った。理由などない、ただそう感じたのだ。
今なら船を出せる気がした。なんとなく、船を浮かべればこの白銀の道の上をまっすぐに、ずっとずっと水平線の先までも行けるような気がする。
 だが男には、もうそんなのはどうでも良かった。今ここにいる。ここにいられることが幸せだと思う。この島で、島の一つの命として生きることが男には定めのように思えた。
 ふと、温かい重さが肩にかかった。
 振り返れば青年が立っていた。
「ユン国が懐かしいか?」
 真っ直ぐに青年の顔を見て、そう読む。だから男は首を振る。青年はその答えに優しい笑みを浮かべ、男の隣に腰を下ろした。
「どうしても、お前に言いたいことがあってきた」
 真っ直ぐな青年の瞳に、男はただ言葉を待つ。
「島を救ってくれて、感謝している。ありがとう」
 驚いた。島では出来る者ができることをするのだと言って、だからあえて感謝の言葉を口にすることがないというのに、青年は確かに「ありがとう」と言った。驚く男に青年は言葉を探すように、ゆっくりと言った。
「感謝の言葉を、今回は、言わなければならないと、言いたいと思ったのだ。おまえは島を救ってくれた。おまえがいなかったら、みんな死んでいただろう。この島では感謝の言葉をいう習慣は無い。そんな必要はないと思っていた。だが今は、少しだけユン国の者の気持ちがわかる。こうして感謝を伝えたくなることが、確かにあるのだと」
「私は、できることをしたまでです」
 男は自身に聞こえないながらもそう言った。青年の様子を見れば、伝わったようだった。だから言葉を継ぐ。
「私は、いえ私も、ソワヌィ・カムチの命の一つですから」
 その言葉に青年は破顔一笑した。男もつられて笑う。
 そんな二人を、ポポタラだけが見守っていた。

「舟が来る」
 そう、青年が告げたのはポポタラが次第に北へと帰り始めたころ。やってきたのはユン国の商人たちの船で、遭難した挙句に潮に流されてここまで来てしまったのだと言った。
 それは島が開いた証拠であった。
 島の人たちは水や食べ物を分けてやり、船が無事に帰れるようにと母波に祈る儀式さえ執り行った。
 もはや耳が聞こえず、それゆえにしゃべることもほとんどしなくなった男も、青年の手伝いで儀に参加していた。その時に間近で見たユン国の人間は、どこか懐かしい感じがした。
 彼らから見て、自分はどう見えるのだろうか。腰布だけを纏い、日に焼けた自分が、はたしてかつて同国人であったとわかるのだろうか。
 男は彼らと話をしてみたいと思ったが、言葉を話すことにはもう自信がなかった。だから結局、一言も彼らと言葉を交わさぬまま、彼らの出立を見送ることとなった。
 日差しは日に日に強くなり、鮮やかな色彩の花が咲き乱れた。春を通り越して夏へ向かうこの島に、新しい風が入り込んできた。島が開き、船は外へと出られるようになった。男たちは遠くまで漁に行き、見慣れない魚を捕ってくる。それは今まで味わったことのない美味で、男はすぐにその魚が好きになった。また獲れたら分けてやるよ。漁に出る男たちはそう約束してくれた。
「舟が来る。大きい」
 ある日、再びそう青年の言ったとおりに船は確かに島へ来た。男はその船を見るなり、体が硬くなるのがわかった。それは、ユン国の船だったのだ。しかも、貴族や皇族が乗るような立派な船だ。商船には見えない。年に二度もユン国の船が来ること自体が珍しいと、青年はひどく緊張した面持ちで言った。
「隠れていた方がいい」
 だが男は首を横に振った。まさかこんな南の果ての島に、ユン国の船が自分のことで来るはずがないと思っていたのだ。ましてや侵略でもないだろう。
 だが、上陸した武士のいでたちを見て、彼らが必要とあらば皆殺しも辞さない構えで来たことが分かった。
 侵略であればもっと大船団でやってくる。そうではないのにあれほどの構えでやってきたとなれば、おそらく目的は自分だろうと男は察しをつけていた。
「男を探している。ユン国の医者だ」
 男の思っていた通り、確かに武士たちはそう言った。男はその瞬間、聞こえない耳で楽園が崩れる音を確かに聞いた。
 青年は彼らに応対し、そんな者はいないと告げたが、武士たちは納得しないようだった。
「この島で見たという者がいる。出さないのなら、こちらにも考えがある」
 そう言われてなお、青年は譲ろうとしなかった。その様子に、武士は刀の柄に手をおいた。脅しのつもりだろうか。今にでも刀を抜きそうな武士の前に、男は咄嗟に立ちふさがった。彼を殺させるわけにはいかない。
 青年が男の肩を後ろから掴むが、男は青年の前から退こうとはしない。
だがその時、船から小舟で新たに上陸した男たちがいた。彼らは先の武士とは態度が違っていた。武士たちもその人の姿を見てその場に膝をつく。
 男は信じられぬ思いでその人物を見ていた。それは、兄を利用し死に追いやった佐の宮その人だったのだ。宮廷行事で二、三度遠目に見ただけだが、皇族の纏う独特の雰囲気と野心に満ちたその瞳は、見間違うはずもない。本来であれば帝として即位して、宮廷にいるはず。外海に出て来ようはずもない。だが彼は島民の中で唯一驚き足のすくんでいる男に目をつけ、親しげに近寄ってきた。ユン国時代の癖で、男は膝をついた。だが、頭まで垂れることはしなかった。
「こんなところにいたのか。ずいぶんと探したのだ。もはや海に沈んだものと思っていたが、商人たちからの知らせで南の果ての小島で生きていると聞いて、喜びの余り私自らがやってきたのだ。君には期待している。聡明な医者であった君の兄上のように、宮廷付きの医者として登用する手配は済んでいるのだ」
 佐の宮その人は、そう言って男を立たせる。それが嘘だということはわかっている。だが男は佐の宮に一礼すると、足もとの砂に指で文字を書いた。
 ――私は航海で聴覚を失いました。兄のような大任を果たすことはできません。
 驚いたように彼は何か口走ったが、今度はその唇の動きが速すぎて男には理解できなかった。
 だが彼らがそこであきらめるようなら、わざわざここまで来たりはしないはずだ。
「耳が聞こえずとも、宮廷に職を用意しよう。君は先帝の流しの儀を邪魔しようとした沖ノ島の住民を摘発したのだから。それ相応の待遇を帝として君に与えようとしているのだ。まさか断ったりはするまい」
 男は、決心した。
 彼らは沖ノ島のことを出したことで、拒否すればこの島も同じなると暗に脅してきたのだ。それだけは避けなければならない。それは船を見た時から予感していたことだった。男はだから頷いて、青年に向かった。別れを告げるために。
 言葉を失った男は、だがあふれる想いを伝える術を持たなかった。ただ、深く頭を下げただけ。島のみんなが不安そうに見ている中で、それでもすぐに出立しなければ島が危険だと感じている男は、彼らにほほ笑んで見せた。自分は大丈夫だと、そう伝えたかった。
 青年が、男の肩を掴んで言った。
「おまえはソワヌィ・カムチの命だ。帰りたいと思ったら、ポポタラの後を追え。島はいつでもお前を待っている」
 男ははっとした。唇の動きを読んだその時に、なるほどそういうことかと、彼は一人合点して頷いた。青年はおそらくソワヌィ・カムチと言ったのだろう。だが男にはそれは別の言葉に読めた。
 ここが楚羅埜那珂真知。
だとしたら自分は本当に、奇跡的に生きてそこにたどり着いた人間であったのだ。そして楚羅埜那珂真知の命となった。
 男にはもう、未練はなかった。この先起こることがわかっていながら、それでも晴れやかな気分であった。
 しかし男から医学薬学を学んだ少女は、男の腰にしっかりとしがみついて「行くな」と手言葉で伝えた。本来であれば掌で伝えられるべきその優しい指のたたく数から、男は背中で彼女の意思をくみ取る。だから片手は彼女の美しく長い黒髪を撫でながらも、もう片方の手でユン国の者たちに見えないよう、その細い肩に言葉を伝えた。
 ――島は私に体を癒す時間、島の人間として生きる命、そしてもう一度自分で決断する機会を与えてくれた。私は島の人間だ。だから、島のために出来る事をする。どうか、覚えておいておくれ。私の体は島を去っても、私の魂は島に残る。私は、ソワヌィ・カムチの命の一つなのだから。
 少女は身を離し、だが悲しそうな瞳で男を見つめた。男も優しく少女の体を離し、そして青年に力強くうなずく。これ以上伝えることは何も無かった。だから最後にもう一度だけ、集まった島の人々すべてに深く深く頭を下げた。
 佐の宮はこの暑さが我慢できないのか、玉のような汗を浮かべながら出立を急がせた。熱を帯びた風はこのユン国の者達に虐殺する間を与えない。それはまさに守風であった。
 男は自分が最後に乗り込まなければ承諾しないと言い張り、皆の見ている前で最後に船に乗った。誰かが自分が乗った後に島の者を傷つけないよう、どうしてもその目で確かめていたかったのだ。
 それが功を奏してか、船は誰も殺さずに島を離れた。波は驚くほどの速さでぐんぐん船を沖へと流し、島から遠ざける。それはまさに母波であった。
 最後まで島民が見送る中、彼は静かに島を去った。持って行ったのは、来た時に唯一持っていた浅黄色の紙片、ただ一枚。

 島が見えなくなるなり、男への対応は変わった。
 佐の宮は笑みを消し、いや、それどころか別の笑みを浮かべて男を見た。それだけで言葉などなくても、先のことは予測がついた。佐の宮はただ、帝殺しを知る者が生きていることが不安でならなかったのだろう。確実に処分するために、わざわざ自らがここまで来たのに違いなかった。そうしてようやく見つけ出し、安心したのだ。
 男は乱暴に船底の小部屋に入れられた。じめついて、ひんやりとした光の無い部屋だった。
 一日か二日に一度差し入れられる食べ物には、ご丁寧にもユン国のスガリの根が使われていた。もとより信頼していなかった男は手をつけようともせずそこに放置していたのだが、ネズミがそれを食べて死んだのを見て、確信したのだ。
 出される食べ物も飲み物も拒否し、一切明かりの入らないじめついた暗闇の中に閉じ込められた男は、見る見るうちに衰弱していった。はじめは波の揺れも船の動きも感ずることのできた感覚は次第に働かなくなり、今はいつで、ここはどこなのかも分からなくなっていくようであった。ネズミの気配も、毒入りの食事で死んで以来感じず、ただ腐臭だけが漂って彼の嗅覚をも狂わせた。
 島で回復した体は、島を離れてまた元通り死へと近づいていった。
 そんな中で思い出すのは、あのソワヌィ・カムチの熱い日差しと、褐色の肌の住民たち。甘い果物に新鮮な魚。海を渡るさわやかな風と、優しい潮の匂い。思い起こすだけで、自分がまだあの島にいるような幸せな感覚に男は酔いしれていた。空腹も、渇きも感じることなく、男は夢を見続けた。心はあちらに置いてきたままだった。
 やがて、船が止まった。
 飲まず食わずでまだ生きているということは、島を出てから数日しか経っていないはずだ。潮の流れに乗ったのでなければ、まだユン国に着くほどではないだろう。
 乱暴に船底の戸が開けられ、彼が引きずり出されたのはそれからさらに数日が経った頃だった。もはや衰弱で満足に立つこともできず、久方ぶりの日の光に目は焼かれ、船べりに引きずられてもなすがままの状態の男に、佐の宮は言った。
「人柱をたてる」
 男には聞こえていなかった。日の光に焼かれた目もまだ真っ白で何も見えない。だから彼には何を言われたのかわからないままであったが、何を思ったのか、彼は船べりに手をついてゆっくりと立ち上がった。後ろには弓を構えた武士たちが、彼を狙っているというのに。
 男には知る由もなかった。船に藻が絡み、凪も手伝って全く先へ進めなくなったことなど。さらに悪いことに船で病が発生した。突然高熱を出し、脈拍数が低下し、吐き下し、痙攣が止まらないのだという。それはすべて罪人である男を乗せているが為だと、佐の宮と武士たちは考えた。罪人を乗せて航海をしているせいで、海が怒っているのだと。確かにそうとしか考えられない異常な現象であった。
 本来であればユン国へ戻り、彼の骸を帝への反逆者として見せしめに晒すつもりであったが、このままでは船が全滅してしまう。故に仕方なく彼を人柱とし、海の怒りを鎮めようというのだ。
 そのために引き立てられた男は、そうでなくてもあと数日で死んでいただろう。それほどまでに弱り、船べりに引きずって行っても、ぼんやりと視点が定まらないながらに空を見つめるばかり。もはや狂っているとしか思えなかった。
 だがその時男には、何かが見えたのだ。どこまでも青い高い空の果てに、白い鳥のような影が。
 やがてそれは近づいて、ようやく回復しかけた男の目に、ぼやけて映る。それはやはり白い鳥に見えた。
 ポポタラ……
 季節が変わり北に飛び去ったはずのポポタラがここにいるはずなどないのに、それでも青年はその手を高く高く掲げた。ポポタラに届くように。目などほとんど見えてはいなかった。
「帰りたいと思ったら、ポポタラの後を追え。島はいつでもお前を待っている」
 青年の言葉だけが、彼の聞こえない耳に響く。
 ポポタラの後を追えば。あの鳥の後を……。
 足元がぐらついたのは、波のせいか、衰弱した足が体を支え切れなくなったのかはわからない。ふらりと体が傾いて、次の瞬間には放たれた矢が直前まで男のいた場所を過ぎ去って行った。落ちた男が水面に着くか着かないかのその刹那、矢の如く目にも留まらぬ速さで海面に降りてきたのは白い鳥であった。その鳥は水面すれすれで何かを掴んだかに見えた。
 次の瞬間には、鳥は二羽になっていた。後を飛ぶ白い鳥の口には、浅黄色の紙片がくわえられている。
 急いで武士たちは矢をつがえて男が落ちたと思われる海面を狙ったが、そこには何もいなかった。落ちた男どころか、波紋さえもなく、絡んだ藻が緑色にたゆたっているだけ。そして二羽の白い鳥は、その間にも矢の届かない南の空へと飛び去って行った。

 後ろを飛んでいた鳥は、やがてフイッと方向を変えると見る見るうちに陸地へと近づいた。そこはあの島ではなく、異国の服装に身を包んだ人々がいる。
 そこに飛んで行って、やがて鳥は口にくわえていた紙片を一人の旅人らしき者の手にのせた。その人は驚いたようであったが、やがてその紙片を大事そうに懐にしまいこむ。
 白い鳥はそれを見届けるかのように低空をくるりと回ると、またひらりと舞い上がり、もう一羽と合流して、お互いの周りをつかず離れず、南の空へと飛んで行った。

 大きな夕日がその白い姿を金色に変え
 柔らかい暖かな守風が二羽をのせ
 優しい母波は二羽の行く先を示す
 ただ真っ直ぐに、真っ直ぐに――







注記
 この作品にある楚羅埜那珂真知渡海はかつて日本で行われていた補陀落渡海をモデルにしています。


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