作・おりえ
「アタシを忘れた? そりゃ悲しいね」
最近、夢の中に必ず女が出てくる。
そりゃあすこぶるいい女で、清純って感じじゃない。魔性の女って感じだ。
波のように緩やかな黒髪が光に反射してキラキラと輝いて、それと合わせた真っ黒な、ガラス玉みたいに綺麗だが、どこも見ていない瞳と、真っ赤な唇。 それがにんまりと笑い、必ず言うんだ。「忘れちまったのかい?」って。
冗談じゃないね。こんないい女、男なら誰だって忘れるわきゃないだろが。俺の脳みその「いい女ベスト10」の間違いなく上位に入ってるね。あいにく1位はやれないな。アンタがどんなに美人でも、うちのカミさんにゃあかなわねえだろ。
けどその魔性の女は夜な夜な俺の夢の中に出てきて、同じ台詞を言うんだ。困ったなぁ。カミサン一筋で60年生きてきたのに、気づかない内に浮気でもしてたか?
「あなた、今日の具合はどう?」
俺の「いい女ベスト10」の見事1位を勝ち取ったカミさんが、俺を心配そうに覗き込んでる。
俺はいわゆる死にかけのジジイだ。
歯だって抜けてるし、マブダチだと思ってた毛髪にも裏切られて鏡の前にたてやしねえ。 寝小便も平気でちびるし、いいことなしの格好悪い状態のまま、おっ死んでいく身よ。
カミさんも随分老けたけど、いい女ってのはいくつになったっていい女なんだ。ダンナたる俺様が、いつだって愛情かけて育んでいった女だ。枯れるわけがねえ。
けど、俺がふがいないばっかりに、カミさんを残して死んで行こうとしてる俺ってば、男がすたる。ボケ老人にならないだけマシだが、カミさんの辛い顔を見るのは正直しんどい。
そんな生活の中、やっぱり現れるんだよ、そのマブイねえちゃんが。
いい加減同じ展開なのに飽きてきて、俺はねえちゃんが口を開く前に言ったのさ。
「俺もいい年だが記憶力までさびついちゃいねえよ、あんたみたいなべっぴんさんを忘れてるなんてありえねえ。おまえさん、人違いしてやしねえか?」
するとそのマブイねえちゃんは、カミさんにも負けないダイナマイトボデー(年寄りは間に小さい字が入った単語を言うのが苦手なんだよ)をくねらせて、笑いやがった。
「そいつは失敬……とアタシも言いたい所だけど、ちょいと記憶をいじらせてもらったからね、当然アンタは、アタシのことを忘れてるよ。でもそろそろ思い出してくれてもいい頃合だと思って、こうして夢の中で会いにきてるんだ。いきなり家に行っても驚かれるしね」
「っておいおい。アンタ、夢の中だけじゃなく、実際に俺の所にこようとしてるのか?」
俺は慌てて言った。なんだこの女? マジか?
「そりゃそうさ。借りたものはきちんと返すのが礼儀ってもんだろ?」
ねえちゃんはクスクスと笑って肩をすくめる。
「俺が……あんたになんか貸した?」
「そう。アンタにとっても、アタシにとっても大事なものさ」
俺はそこで目が覚めた。
相変わらず体は動かねーし寝小便垂らしてるし最悪の現実がそこにはあるが、ねえちゃんの言葉が頭から離れない。
俺がいつ、あんなねえちゃんに何かを貸したんだろう?
「目が覚めた?」
カミさんが近寄ってくる。
うーん、カミさんほどじゃねーけど美人のねえちゃんに貸したもの……金……じゃねえよな。俺結婚するまで遊んでたし……
「なあ」
「ん?」
俺がしわがれた声で呼びかけると、俺より10若いカミさんは、目尻にしわを寄せながら微笑みかけた。
「もしかしたら、すんげー美人で若くて黒い髪の姉ちゃんが、借りたもん返すとか言って訪ねてくるかもしれんけど、もらうものはもらっておいてくれないか? なんかしんねーけどさ」
「なんですか、それ?」
カミさんは、俺がボケたと思ったか(しょうがねーよな)、ただ笑っている。
「俺だって自分でアホだと思うんだが、昔、俺なんか貸したらしいんだわ」
「そのあなたが言う綺麗な女性に?」
「うん」
俺がうなずくと、カミさんは大きく笑った。
「あなたがそんな綺麗なお嬢さんと知り合いだとは思わなかった。近所の人?」
「いんや、俺が覚えていないほど昔らしい」
だけどあのアマ、俺の記憶をいじったとかなんとかアブネーこと言ってたし、最近かも?いやいや、最近の俺は寝小便垂れる正真正銘のクソジジイ。ありえねー。
「あなた」
カミさんはゆっくりと言った。
「そんな、覚えていないほど昔のことなら、もうその女性も忘れてるわよ。それに、もしもウチにきたって、少なくとも黒い髪ではないでしょう。素敵なご婦人になってるわよ」
カミさんの言葉に、俺は目を開いた。
そうだ、そうだよ、そんなに昔のことだったら、あのねえちゃんだって今は老けてるだろ。なのになんだあの夢の中の姿は。俺と同じで夢の中だけ若作りってか?
俺はフフフと笑った。カミさんが俺を少し哀れんだような目で見ているが気にしねー。
今夜夢の中で会ったら、本当の姿を現せと言ってやるか。
全く毎夜毎夜人の都合も考えないで現れやがって、見てやがれ!
カミさんが下の世話をするのを申し訳ないと思いつつ、俺は脳内ガッツポーズを決めた。
その女は傷だらけで、壁によりかかって座っていた。
綺麗で長い足を惜しげもなく地面に放り出し、呆けたように空を眺めてた。
黒髪に合わせたのか着ている物も黒ずくめで、一目見て俺は思った。こんな綺麗な死神のねえちゃんになら、今すぐ命を取られてもいいって。
雷鳴とともに雨が降り出し、女の体を濡らしてゆく。
その女には雨がよく似合った。傷口から流れ出る血液さえ、女を彩る飾りに見えたほどだ。
女はそれでも、空を眺めることをやめなかった。もしかしたら、女は空なんか眺めていなかったのかもしれない。
俺は多少のスケベ心も手伝って、気楽に声をかけてみた。
「よぉねえちゃん、彼氏と喧嘩? 派手にやられたな」
女は空を眺めるのをやめ、ゆっくりと俺を見た。
カミさんに会うまでの俺は、下半身の赴くまま生きてきたオスだったから、その顔を見て俺のマグナムがねえちゃんに標準を合わせたのは言うまでもない。
綺麗な綺麗な、それでいて背筋を震わすほどぞっとする顔だったね。かっさらいたくなるっつーのかな、男がころっと騙される女の見本みたいな顔立ちをしてた。
女はどこか自虐的に、それでも魅惑的に微笑んだ。
「そうだね。結構な獲物だった」
囁くような、少し低めの声。俺が欲望の下僕だったら、迷わずここで昇天してたろう。雨音までもが女のためにあるようで、俺は感動さえ覚えちまった。
「次の獲物は、俺なんてどう?」
軽快に言ってるが、俺はそのときマジだった。あーもうダメ。いろんな意味で。ここでこの女を逃したら、俺は死ぬまで後悔する。一生のお願いってやつだ。
だけど女は、俺のマグナムから弾を抜いて、使いもんにならなくしちまった。
「キミが? キミは食べごろじゃない」
正直ムッとしたね。大体女が男に「食べ頃じゃない」ってどーゆーことだよ。俺様のマグナム砲の威力を知らねえな?
俺は女と同じ目線になるためにしゃがみこみ、少々ドスの利かせた声で言った。
「試してもみねーでそれかい? つれないね」
「試さなくてもわかるさ、坊や。キミは背伸びをしてるだけ。優しい男の子だ」
女は首を傾げてクスリと笑った。悔しいことに、何をやっても絵になるんだわ。若いガキってのはささいなことでキレやすい。俺は女の胸倉をつかんだね。
「んだとこのアマ! 今ここで試してやろうか!? ああ!?」
ぐっと近づいた女の顔がまた人形みたいに整ってて、気味が悪いほどだった。雨で冷えたせいなのか、女の体温がまるで感じられなくて、死体みたいだった。
女は抑揚のない声で囁いた。
「男はそう簡単に、女に手を上げるもんじゃない。癖になったらどうする? キミがいつか出会う大事な女性にまで手を上げるようになったら、キミはおしまいだ。私が食べたところで、時間は戻らないよ」
「何言ってんだ、てめ」
俺は薄気味が悪くなった。なんだこの女。絶対に普通じゃない。どっかおかしい。そのときだった。
「見つけたぞ、女!」
数人の男たちが俺たちを取り囲んだ。
俺がぎょっとしてそいつらを見ると、どう見ても堅気じゃないのが5〜6人。殺気を含んだ視線で俺を通して女を睨んでる。どいつもこいつも手に物騒なものを持っていて、今にも振りかざしそうだった。
俺のマグナムが意気消沈し、負け犬が背後に取り付こうと忍び寄ってきた。だけどかろうじて俺は負け犬を脇に追いやった。いつもだったら負け犬と手に手を取ってとんずらこいてる所だが、今は俺の後ろに女がいる。どんなにいけすかなくても頭のおかしい女でも、女は女だ。男が数人で女が一人。しかも全員殺気立ってる。殺されるより悲惨な目に遭わされるのは誰が見たって明らかだ。一番マトモな俺がなんとかせにゃならんだろ。よし、俺のマグナムよ、俺に勇気を貸してくれ!
俺は負け犬の代わりにマグナムを奮い立たせ、立ち上がった。正直俺のマグナムはこういうときに何も役に立たないのだが、ないよりはマシだろ。
「おいおいこんな雨の中、平和的じゃねえなあ。このねえちゃんをどうするつもりだ?」
聞いたって意味がないことを言ってみる。お約束だよな。
ひとりが俺のことなんか無視して女に向かって叫んだ。
「てめぇ、ヤツらをどうした!? あいつらに何をしやがった!」
「?」
きょとんとしたのは俺だけだった。ねえちゃんが笑って立ち上がり、静かに言った。
「荒っぽい連中だった。さすがにおいしかったよ」
「なんだとてめぇ!」
男たちは怒鳴り声を上げるが、その声色が女の言った意味を把握していない。俺だってそうだ。食べただのなんだの。この女は食人鬼か?
「やつらに妙なクスリを打ったんだろう! 泣きながら全員首を吊ってた! 遺書までご丁寧にありやがる!」
あらら。そーゆーことかい。
俺はひとりで納得した。
つまりこの女は薬の売人で、新種のクスリを実験したわけだ。ヤクザ屋さん相手に。こんなねえちゃんが売人とは、世の中とことん腐っとるのう。
「そんなことはしない。彼らはただ気づいたのさ。自分たちが今までどんなことをしてきたのか。そうして生きていられなくなり、自ら死を選んだってわけ。アタシはただ、彼らの中にある黒いものをおいしくいただいただけ。好物なんでね」
女の言葉はますます意味がわからなかった。我慢がならないとばかりに、男たちが手にしたものを振りかざして迫ってくる!
俺が身構えるより早く、女が俺の前に立ち、優しく言った。
「ね、キミは優しい男の子だ。食べ頃じゃないんだよ」
いつのまにか雨が止み、光がゆっくりと満ちてきた。
俺はさっき女を雨が似合うと思ったが、光の中の女はまるで天使のように見えた。黒ずくめの天使。いいじゃないか?
俺は呆然と女を見詰めていた。
女は自分から男たちの懐に入り、ナイフで刺され、拳で打たれていた。俺が飛び出そうとしたとき、男たちが次々と悲鳴をあげて倒れたのだ。
女の手には、黒い水晶玉のようなものが握られていた。それを愛しそうに見つめると、女はそれを口元に持っていき、果実を相手にするように、がぶりとかじった。
玉から黒い汁が滑り落ち、女の唇からも一筋流れる。女は玉をそれはそれはうまそうに食べた。砂糖菓子を食べる幼い子供のようだった。全て食べ尽くし、まだ足りないとばかりに手のひらを舌でなめとる姿は妙になまめかしく、俺のマグナムがまた女に標準を当てそうになった。いかんいかん。
やがて男たちが起き出した。皆しばらく呆けていたが、やがて誰ともなく嗚咽を漏らし始めた。
「おお、俺は、俺はあああああ!!!!」
「い、今までなんてことを……」
「人を、人を殺した……それも何人も……!!!!」
口々に、自分が過去にしてきた罪を吐露しはじめ、滝のように涙を流し、自分の体をかきむしりながら地面を転がる。
狂人たちを見ているようで、俺は目を背けた。なんなんだこいつら。やっぱりこの女、妙なクスリを!?
「うわああああああ!!!!!」
やがて男たちは叫びながら走り出した。悲鳴が小さくなるまで、俺と女は立ち尽くしていた。
「……なん、だったんだ……?」
頭を振りながら言うと、女は微笑んだ。
「アタシは、人間の黒いものを食べながら生きてる。もっとも、あと少しで寿命が切れるんだがね」
「は?」
女はまたどさりと腰を下ろした。体についたあちこちの傷が、心なしか和らいでいるように見えた。
女が言うには、人間の負の感情、たとえば殺意とか怒気とかそういうものを取り出せる能力を女は持っていて、それを食らうのが好きなのだという。女に負の感情を食われた人間たちは真人間になるため、自分の過去に犯した罪に絶望し、自ら死を選ぶか、お役人にしょっぴかれに行くのだそうだ。
「アタシが好むのは大量殺人者とか、今みたいな人たちの黒いもの。それ以外はまずくてとても食えないんだ」
俺はだんだんわかってきた。女の言う「食べ頃」ってのは、俺の下心の「食べ頃」とは全然意味が違くって、ある意味女の言葉通りだったわけだ。……てことはなにか? 俺は真人間なのか? うっそだろ? まあ確かに今まで犯罪と呼べるようなことはしてねーけど、未成年で酒やタバコもやってたし……うーん、納得いかねーなぁ。まあ女に俺の負の感情が食われて俺までああなっちゃかなわねえから何も言わないでおくけどよ。
こんなバカみたいな話を俺が受け入れたのも、さっきのヤーさんたちの姿を見たからだ。そうでなかったら、俺は間違いなく女をしかるべき場所へ連れて行ってた。
女は納得した俺を満足そうに見つめ、息を吐いた。
「さ、もう行きな。静かに天寿をまっとうしたいんだ」
「はい!?」
女はだるそうに足を投げ出し、俺が最初に見たときと同じポーズで空を見上げた。
「言ったろ? そろそろ寿命が尽きるんだ。だから坊やの下心にはつきあえないよ」
なんだこのアマ。俺の言った意味をわかっててはぐらかしてやがったな!? が、悔しいからそこは言わないでおく。それより!
「寿命ってなんだよ? あんた死ぬのか?」
「そーだよ。見かけによらず、結構な年なんでね」
「おい、俺を追っ払おうとして、適当フカしてんじゃねーぞ?」
とは言ったが、女の青白い顔と、今までのことを思うと、なんだか嘘に見えなくなってきた。
「今回は都合よく、寿命を提供してくれる人間がいないからねー……のまま逝くとするよ」
「おいおいおい。寿命を提供って」
「人間の寿命だよ。これは相手がくれるって言うからもらってた。ちゃんと返してるよ? でも今回は返した後、誰もいなかったから……」
女のまつげが震え、まぶたがおりる。俺は慌てた。
「ちょっと待てって!」
「あーもう。静かに逝きたいんだから、邪魔しないでおくれよ……」
「待てっての! んなもん俺がくれてやるから、少しは俺の話を聞け!」
「ほんと?」
女があっさり目を開けた。俺はずっこけたね。詐欺師かこいつは!?
「どれくらいくれるの?」
「どれくらいって、俺の寿命がどれほどのものかわかんねーから、言いようがねーよ」
「キミは百以上生きるとみたけど」
「マジ!?」
「マジマジ」
「よしじゃあ、三十年やる。だから今晩俺につきあえ」
「後悔しないね?」
「しないしない。返してくれるんだろ?」
「もちろん返すとも。持ち逃げはしない主義だ」
「うし! じゃあ、持ってけドロボー!」
そんで、ホントにドロボーされた。気づいたら俺、自分の部屋のベッドで寝てたんだもん。
「……やっと思い出した?」
「思い出したんじゃなくて、おめーが思い出させたんだろーが。何が「忘れたの?」だ。この詐欺師の若作りが!」
夢の中、俺は改めて女を見た。
相変わらずの美貌だが、なんだろ、全体的に、ますます黒みがかかったような気がするぜ。ああ、あのマニキュアのせいかも。真っ黒だ。
「フフフ。でも、返しにきた。キミの寿命をね」
「新たな犠牲者は見つかったか?」
「ぎ、犠牲者はないんじゃない? みんな、自分からくれるって言ったんだから」
「あれは言ったんじゃないの。言わせたっていうんだよ!」
「あはははは。そうかな?」
「そーだよ!」
「そうかもね」
女はすんなりと認めた後、背を向けた。
「あ、おい!?」
「今度は現実で会おう。楽しみにしてるね」
黒い髪がなびいて、遠ざかっていく。
俺は追わなかった。自分からくるって言ってるんだ。焦るこたーない。
それから俺が目を開けると、カミさんが、お客様よと女を紹介した。
夢の中と同じ姿をして、赤いバラの花束を肩に乗せ、カミさんに優雅に挨拶をし、花束を手渡している。花を包んでいる包装紙に「ソラノナカマチ」と書いてあるのがかろうじて見える。近くにそんな花屋はねえな。カミさんはぽうっとなって、花束を持ったまま、部屋を出て行く。花瓶に生けるためだろう。そっちのが都合がいいから助かった。コイツが男だったら道行く女が黙っちゃいねえだろうな。
「やあ。ずいぶん老けたね」
カミさんがいなくなると、女はうれしそうに俺を覗き込んだ。
「第一声がそれかよ。ああ老けたよ。俺は普通の人間なんでね」
寝たきりで粋がっても格好悪いが、俺は精一杯虚勢を張った。
「これからキミに寿命を返すよ。本当にありがとう」
「30年以上経ってくるってことは、おめーほんとはあの時まだお迎えがきてない状態だったんだろ?」
「いやいや。他にも分けてもらってね。うっかりキミのところにくるのを忘れていた」
「持ち逃げかよ」
「ちーがうって! 返しにきたんだからさ!」
女はポンポンとベッドを叩いて軽快に笑った。くそっ!
「寿命返してもらったら、俺どーなんの?」
「もちろん、あと30年は生きられるよ」
「若返る?」
「もちろん」
「そっかぁ」
「どうした? うれしくない?」
俺はカミさんが出て行ったドアを見つめた。
「俺はさ、女房と同じ時間を生きたいよ。いきなり俺だけズルはいかんよ」
「おおっ、愛妻家だねぇ」
「うるせーよ。だからせめて、女房と同じ年齢にしてくれや。残りの寿命はアンタにやる」
俺はカミさんより先に逝きたくなかった。残されたカミさんのことを思うとどうしようもなく辛くなる。カミさんが俺より先に逝くのだっていやだ。だけど、カミさんは、出会ってからずっと俺が愛しつづけてきた大事な女だ。まだまだ愛し足りないのに、先に逝ってほしくない。けど、俺はカミさんを独りにさせる方が何千倍もいやだ。
女はふわりと微笑んだ。
「ね、キミは優しい人なんだって言ったろ?」
そのまま女の顔が近づいて、俺の唇に重なった。
あれ、この感触は覚えてるような気がする。そうだ、俺が寿命を取られた時と……
体が軽くなった気がした。
女は顔を離し、またにこりと微笑んだ。
「いい人生だ。アタシみたいに永く生きてるより、よっぽどね」
「ありがとよ……おおっ」
俺は何年かぶりに起き上がった。背中の床ずれが多少痛むが気にしちゃいけねえ。腕も足も、懐かしい俺のマグナムも! 全盛期とまではいかないが、俺の言う通りに動きやがる!
俺は感動してちょっぴり涙ぐんでしまった。いかん、寝小便が治ったと思ったら涙腺がゆるんでやがる。
「ありがとよ」
「いいのいいの。元々はキミの寿命をアタシが借りてただけだから」
女は手をひらひらさせて、ドアへ歩き出した。
「なあおい、あんたはどこにいくつもりだ?」
俺はその背中に呼びかける。
女は振り向かずに答えた。
「どこまでもさ」
「あら? お客様、どこに……って、あなた!」
カミさんの声と、茶器を載せた盆が落ちる音が盛大に広がる。
俺はカミさんを久方ぶりに抱きしめながら、女の旅路の無事を祈った。
俺は俺の人生を、カミさんと共にもう少し頑張って生きていく。あんたもあんたの人生を、精一杯生きてくれ!
あばよ、ねえちゃん。カミさんとまではいかねーけど、アンタ最高にいい女だったぜ。
◇
女は後にした家を振り返り、艶やかに微笑んだ。
「全くどうして、アタシに寿命を貸してくれる連中は、こんなにいいやつばかりなんだろうね」
肩をすくめて街道を歩いていると、向こう側から歩いてくる人物が、突然女に向かって何かを差し出してきた。
「?」
「これをどうぞ」
女が止める間もなくそれを手の中に押し付けると、その人物はさっさと歩いて行ってしまう。
女は困ったようにその背を見送り、手の中のものを見つめた。
「おや。……これはこれは……」
水色で、印字も読めない古ぼけたカード。
女の眼が細められる。
「あいにくとこれは、アタシが持ってていいシロモノじゃあないね」
女はカードに軽く唇をつけると、街道脇の店先にぼんやりと座っている人物にふらりと近付き、そのカードを手渡した。
「これはきっと、アンタを幸せにしてくれるよ」
「え?」
「幸運を」
渡された人物がぽかんとしているのをいいことに、女は微笑んでその場を離れた。
END
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